zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

塾文化

自分の体験でものを言うととっくに古びているかもしれない。

 

だからそういう怖れも抱きつつ、塾に集まることを考えてみる。

近畿、首都圏以外の経験を持たないので、そうした都市部しか分からない。

 

そこで言えることは、一般に小学校は多種多様の集まり→塾に行くことで同類を発見。

 

こういうことだ。だからもちろん両方あっていい。

 

成績がよいものもそうでないものも、学校のクラスではいろいろである。また地域柄特色のある学区域もあるかもしれない。塾ではそれと異なる新たな人間関係が発生する。場合によっては学校のクラス以上に仲良くなり、わかり合える友だちを見つけることもある。少なくともその「出発点」にもなり得る。

 なぜなら、同じ塾に通っていて、さらに同じ中学に進学すると同志感覚がさらに増えるからだ。

 

それほどでなくても、「弱いつながり」を構成する利点から言えば、多種の弱いつながりは有効で、学校だけだと場合によってはイジメとか行き詰まることとか、担任教師と合わないとかあるが、塾では異なる経験ができて、「自分はクラス以外での生き方を持ち得るのだ」という気持ちを抱くことが可能だ。まじめにこれは自殺防止にもなる。

 

クラスで評価されない子が塾でほめられたり(いわゆる「下のクラス」でもちょっとしたことで塾教師は成果をほめることがある。人間的に必要なだけでなくて、経営的にも求められているからだ。塾を好きになってもらわないと、子どもにやめられると経営が困る。学校と違って塾はいつでもわりに簡単に辞められる)、自分と趣味やレベルが合う子を見つけて友だちになったり。

 

おとなでも実世界で趣味の合う人間をなかなか見つけられないけれど、ネットならということはいくらでもあるだろう。小学生ではネットを自由にという環境にない子もいるから、塾というオルタナティブ・ワールドで探索の機会が増えるのだ。

 

また、いわゆる「できる子」にとっても、小学校の勉強は簡単すぎて、またでき過ぎることが学校のクラスでは「浮く」ことにつながるのが、同じくらいのレベルの子が集まる塾に行けば同志が見つかる。趣味や関心も頭の回りやすい子的な関心の向け方やその論評、スタンスをわかり合えるというか「コミュニケーション可能」ということもあり、とっても嬉しいし、楽しいのだ。

 

塾の休み時間や行き帰り、たぶんしばしば学校のクラス内よりもいきいきと楽しそうにしているやからはいると思う。もちろん常にその逆もあるから、がんばって上のクラスについて行こうと奮闘しながらうまくいかないで鬱屈を抱く子どももいるだろうし、親のプレッシャーの与え方次第も、「塾」というのに子どもが関わるスタンスに影響を与えるだろう。だからプレッシャーは極力減らした方がいい。「とりあえず、その場その場でまじめにきちんとやる」ことの積み重ねを注意していくのが無難で、実測値が揺らいでいく模試の成績にあまり一喜一憂して、次のテストでは「絶対、○○以上」とか「αにいけ」とか過剰にプレッシャーにするとキツイだろう。「・・・だったらいいね」くらいに目標を据えるというか、本人の希望も見極めながら「目標を共有する」のがいいだろう。

 

いずれにしろ、学校以外の校友のチャンスはあった方がいいのだが、無料ではない限り、ここで収入レベル、経済階層によるチャンスの多寡があることも残念ながら事実だ。単にさらなる学習の機会を平等に確保するなら、塾無償化的に公立小学校に7限、8限を設けて学校の先生の残業ではなく、自治体からのバイト料で塾講師的な者が教えればいいのだが、オルタナティブな校友の場にならないばかりか、できることが限られる。

それにいたちごっこでどんなに公的な場で教育時間を拡大しても、「もっとすごい特別の教育」を謳う民間業者は必ず出てくるし、教育ってそれだけ多様に工夫できるのが事実であるから、「全部を全員に包み込める」はあり得ない。差を減じる努力はあり得ることだけ指摘しておくが。それに塾教師にしろ、ふだんの学校での教育にしろ、もっと個性に合うように工夫することを教師の実力だとすれば、用意されたカリキュラムも教師の質も全くそれを保証できる状態ではない。給与のよい会社の会社員なみの給与を教員に払わないと、それだけの工夫ができる質の教師は養成が難しいと思う。結局、その社会が教員的な役割の者をどう収入面でも遇するかは、その国での教育レベルに影響し、結果将来の国民のレベル(政府や政治選択にも影響する)にも影響し、日本のように教師の学歴が低ければ結局国民の学歴も低くなり、官僚や政治トップが博士号さえもっていないという低学歴国家になる。そういうことだ。

 

また上を育てるだけでなく、柔軟な人間観を持ち、多様な子どもに充実感や達成感をそれぞれ抱かせるのは相当な技が必要である。こうした教職プログラムは現在あまりないので、教師は無手勝流で現場で結局「自分の趣味嗜好に合う」子どもをえこひいきするしか接し方がよく分かっていない教師達を量産するのだ。これは本当に子どもの全般的不幸を体系的に増幅する仕組みがそもそも組み込まれているといっても過言ではない。教師の心の柔軟性を高めるのは教師育成上、最も重要で子どもの命に関わる課題だと思っている。

 

基本的に学習、勉強はいやなこと?

受験の季節でしたね。

大学も今、最中で、K大は8日に終わりました。

中学受験東京地区は、2月1-3日が最大の山場です。

たかがネットの記事ですが、Yahooニュースの「中学受験はなぜ盛り上がるのか?」

というのがあったので、これをちょいとした材料に我が家の状況などを紹介します。

記事では長きにわたり批判がある加熱する中学受験・・ということで主な「批判」例を5つ挙げています。番号は私が振りました。

 (2月12日(月)2018年 10:47 Yahoo!ニュースから)

 

1.小学生に無理やり受験をやらせて勉強ぎらいになる。

2.小学生が夜中まで勉強することになり、心身共に疲労する。

3.親子関係が悪くなる。

4.非常に高額な塾代、子育てにお金がかかることは少子化の大きな要因となっている。

5.社会が予測不能な変化をしており、記憶中心の受験学習に意味がなくなっている。

 

 基本これらの話は、小学校受験の「お受験」や中学受験、大学受験みんな同じで、大前提は、「誰もが勉強は嫌いなはず」「勉強は無理矢理させるもの」という概念ですね。なんかかわいそうです。

 

長々とは書きません。うちでは息子は勉強は好きでした。終わりって感じ。

これは、3と大いに関係します。

 

「世間」がおもしろいのは、お父さんがサッカー選手で、子どもにサッカーを親身にあるいは尋常でない時間をかけてトレーニングしてもなんだかそれは「美談」になり、それで息子・娘が優れたサッカー選手になったら褒め称えられます。

 

今やっているオリンピックでも親が選手とかいう話は紹介されますし、つきっきりトレーニングとかよくあるネタですね。それでしまいには「家族の熱意ある支えによってここまでこれました、ありがとう」とこれも美談らしいですね。フィギュアとかお金もすごいかかってますよね。この間もテレビ見てたら、ショートトラック伊藤亜由子さんのお父さんが浜松から名古屋に週3回だったか車で送迎してとか、そうお金持ちでないからたいへんだったとか、確かにたいへんだなぁ、すごいなぁという話をやっていました。

 

勉強にあてはまるとって前にブログで同じようにネタにしたことがありましたが・・。

 

静岡から車で週3回東京のサピックスに通わせて、帰りは夜中を回る、子どもはへとへとになり、授業中居眠りをしてしまうくらい・・・とか言えば、当然、「本来の学校の勉強で居眠りするな!そんなまでして塾通いを“強制”するな!」みたいな怒号が飛びそうです。(昔各地にまだサピがなかったころ、実際新幹線通学?で静岡から東京のサピに来ていることと言うのは毎年のようにいたようです。会ったことないですけど。)

 

お父さんがサッカー選手みたいなことと相同に考えれば、「学習することのプロで給料までもらっている」研究者、大学教授を選手にたとえれば、親が子どもに自分の得意なことを伝授するという点では、うちが息子に勉強を教えるのはこの美談と変わりないですよね。お父さんが現役のサッカーコーチなんてこともありますが、うちも私が現役ではないですが、塾教師歴14年くらいですから、受験勉強教える点でもセミプロです。それで院生時代はというか、結婚初期はそれで一家がめし食ってたわけですから。

 

サッカー得意なお父さんが息子とサッカーを通してコミュニケーションって美談になるなら、うちの受験を通したコミュニケーションも美談のはずですよね!

 

算数や数学を教えるのは超得意ですから、それを通して子どもが親をリスペクトしたり、同じ問題をはさんで解法を楽しんだりするのは、よいコミュニケーションですよね。親子の絆は強まります。

 

でも実のところ、わたし自身は「研究はまぁまぁ好き」でも「お勉強はきらい」ということはあって、まさに「丸暗記」であれば大嫌いです。だけど「考えること」なら好きです。

 

それで、5ですが、他にもよくある「今を何も知らないで自分の体験とイメージだけで教育論をぶつ大人」にもれなくよくいらっしゃるように、低級な勉強しかイメージができないようですね。有名校の入試の数学をどうぞ「暗記」で解いてみてくださいって感じですね。中学と大学を混ぜて論じるのはよくないのですが、この話は大学の入試改革でも同様なので(暗記によるセンター入試という言説、多肢選択の批判とか)混ぜちゃいますが、センター試験も「暗記」で9割なんかとれません。とりわけぜひ東大の社会、日本史とか世界史、一度解かなくていいから眺めてほしいですね。

たとえば2012年の世界史の一番はこんな感じ。(引用、東大入試問題世界史 2012)

(第1問

 ヨーロッパ列強により植民地化されたアジア・アフリカの諸地域では、20世紀にはいると民族主義(国民主義)の運動が高まり、第一次世界大戦後、ついで第二次世界大戦後に、その多くが独立を達成する。しかしその後も旧宗主国(旧植民地本国)への経済的従属や、同化政策のもたらした旧宗主国との文化的結びつき、また旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題など、植民地主義の遺産は、現在まで長い影を落としている。植民地独立の過程とその後の展開は、ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する。

 以上の点に留意し、地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい。解答は解答欄(イ)に18行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 カシミール紛争  ディエンビエンフー  スエズ運河国有化 アルジェリア戦争  ワフド党  ドイモイ  非暴力・不服従  宗教的標章法(注)

 

暗記をしていても「差異を考えたこと」はないかもしれない。場合によってはこの場で各国の方針、ふるまいの差異となりそうなことを思い起こし、答案を構成せねばならない。この「差異を問う」は翌年の2013年入試でも1番で行われています。

 歴史は暗記(だけ)だ!!という言説は、現実の歴史研究やその目指すものを全く理解、頓着せず、(自分がばかで)「暗記するしかできなかった」「暗記以外の勉強をしなかった」体たらくを告白しているだけのことであって、普遍的に「歴史は暗記科目」と言えるわけでもなく、教え方、授業のなかでの思考のさせ方によってどうにでもなるわけです。

 

しかし、小学校では多数の科目をやり、あるいは中学高校でさえも「教師に実力がなく」教師自身が「暗記によって社会の試験の得点が高かった」「暗記大好きさん」であれば、自分自身が「歴史の流れと思考」を主体にした授業なんかできないでしょうし、また指導要領命の日本の教育方法においては、どんどん暗記させて進まないと「範囲が終わらないよ~」ってなことになりそうです。

 

その点、公立よりも自由に教育できる私立の方が楽しく授業も学習もできそうです。

わたしらは高1のときはあまり教えてもらわずに、ゼミ発表みたいに全員が回り持ちして、自分らで調べ、その範囲を皆に説明するという日本史の授業があり、わたしは「平安の貴族政治」を担当して「藤原氏の盛衰」などをやりましたが、十分理解しておらず、また人の説明(授業)を聞いていてもはしょりすぎていて何言っているか分からず、結局あとで参考書で自習する羽目になりましたw。が、いくぶんの主体性は培われ、「藤原氏の歴史上の登場」という結構今に続く日本史としてものすごくインパクトがあり、本当に今に続く、日本社会の「かたち」をつくったという点で摂関政治はすごい発明で面白いものと私に思わせてくれています。ありがとうです。

 

さて、そんなことで勉強に「考える」要素を取り入れると結構楽しいもので、「なぜ?」ということになりますから、「なぜ?」を構成して、その解答を自分なりに探っていく(完全な解答ってのは考えようがないものだなぁと気づいてもいく、100%にならなくても努力してよりよい状態に近づけていくことが大切という研究に通じるマインドはこうして醸成されていくかも)(素人ほど100%正解の答えをほしがる)。これは面白い道のりですよね?

 

でもわたしは受験は必要ないと思って、小受はずっと、中受も最初はかなり反対していたのですが、妻に押し切られました。反対していても教えることはやむなく続けていたので、コミュニケーション、やりとりは、スポーツも他もあらゆることをしていましたが(普通にキャッチボールとかサッカーとか、スキーとか、うちではよく旅行とか、あらゆるお出かけとか)小5,小6では勉強教えている時間も長くなったわけですね。

でも、夜中までなんかしないですし、近所のサピに行ってましたからさして帰りも遅くなく、早寝していました。

 

問題は費用ですよね。費用はやはり圧迫です。前に別に書いた「物量の知育ですか」うちは学習に金の糸目をつけなかったので、これも妻とケンカしましたがそういう決着です。全部妻に負けてます。全敗です。妻は今「どうせ負けるのが分かっているのだから、文句言ったり、反対しなきゃいいのに」と言いますが、意見、考えの方向が合わないのは昔からです。む~。

 

だから勉強嫌いで勉強がいやな子に無理矢理塾通いや深夜までの勉強を強くという虐待まがいのことはわたしも反対ですよ。わたしも自分のこがつくまで行く才能あるとは思っていなかったので、そんなこと最後は無理強いになるだろうと思ったから反対したのです。受かっちまいましたが。

 

ということで、まじめに論じれば、なぜ世間ではスポーツや音楽とか他の才能、特技はほめるのに「勉強の才能」だけdisるのか。それはその才能が最も普遍的に安定した収入と社会的地位に結びつき、下手すると「全員」がやむなく参加せざるを得ない才能アイテムだからですよね。だから妬みも恨みも大きくなる。

 他の方向で大成して報道されるほどに「有名」になった方達はある意味うまい具合にそうした「勉強競争」から離脱して成功した者たちだから、勉強をDisりたい人にとっては英雄であり、それを押し立てて、へんなクイズ番組や東大生いじり番組で、東大生の苦手なことをわざとやらせて嘲笑するといったところでの対立項スターになり得るわけですね。勉強才能への非常に歪んだ社会的評価があるわけです。

彼らが行政や国の仕事をする際に、敵意を向けてdisる人たちのためになるように親身に考えられますかね。disっといて親身にだけしてほしいですか、国民の下僕として?

そりゃあ虫がいいでしょ。いやな思い、20年、30年してきた者が復讐心に燃えて、庶民から搾取するような政策を推進してもシャーデンフロイデではないでしょうか。

 

遇するように遇される、そういったことを受験期の報道からは思う次第です。

わたしがリベラルに傾いたのはたまたま「教える才能をほめられる環境にいて」受験でやってきたことがあまりdisられなかった20代のおかげかもですね。

 

最後に述べれば、でも「暗記」は大事です。データベースなしに思考は回転しませんから。ばかが「思考」だけすると、ツイッターのひどい記事が湧くだけなことがすでに実証されました。基本事項は全部頭に入れましょう。「必要な時に参照」・・だめです。「必要な時」さえ事項が入っていないと「それが必要」と気づきませんから。

大食堂

消耗品買いに大学生協来た。いつも混んでて騒がしいから利用しない生協大食堂。

今日はまだ入試期間なのでというか、もう春休みなので空いてる。

最初で最後の利用か。

鳥たまどん。

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いつの間にか「惣菜バー」ができてたので、ちょっととってみた。グラム売り。でも冷えてたのでめしに埋め込んだ。まあレンジも置いてあるけど。

唐揚げの質がいまいちやったー。

2学舎食堂の方がうまい。

めし

幸い母親は怪我入院以前の状態に戻った。要支援も上がって下がった。

親はものすごく昔堅気なので、どうしても自分で料理を作りたがる。こちらは心配、懸念もあって、関西来て、14日とか12日とか東京の非常勤もないし、昨年度までのふだんより長期滞在している。

しかし、この間親にずっと晩ごはんを作らせると負担でさすがに疲れも出てくるから、敢えて中日あたりに泊まりに出たり、三日に一度は会食とか外で食べて帰ることにしている。

本当に会食ならよいが、そうも都合よく行かないので、適当にひとりで食べてる。多いのはジャンクなもので、松屋の牛丼、南方や大学商店街のラーメンとか王将。

もっと好きなものに徹底するために時にはスーパーで食べたい惣菜だけ食べる。

今津のライフストアにはイートインスペースがあるので、ええおっさんがひとりで食べてると侘しいがあまりひとめを気にするタイプでないので、平然と鯵フライとか、天ぷらものとか、ふだん家で作るには面倒すぎて作らないようなものを食べる。

今日は寿司パック食べた。

酒を飲む人は、ここで当然ひとりで飲み屋に入るが私の人生にそういう選択肢はない。飲まない人間にとって夜は厄介だ。ビンボーでもあるから、いつも素晴らしいフレンチや和食をいただくこともないし、そもそもそれほどそういうのを食べたい個人的欲求がないので(人となら入るモチベーションが出る)、ジャンクで十分というか、気楽な食べなれてるものが食べたくなる。

ということでわりに夏場はスーパーで食べているが、やはり今日は寒いぞ。冬場は向いていないな。

ということなので、ましなもの食べたいときは、いろいろな人を呼び出して食べるが、土曜日とかも高校の同級生と芦屋で食事する。院生と食べることもあるがいつもいつもとはいかない。ty大は必要もなく、やたらいつもいつもであったがw。

ということで、敢えて時間を潰して、そろそろ帰るか。

親はひとりなら昨日のシチューの残りとかまぐろの煮こごりとか簡単にテキトーに済ますようだから何よりだ。まぁ配達さえあればもうかなり大丈夫みたいだ。春からは月いちで関西に通うことにする。

大学院生はどうやったら勉強するのか?

大学院ができて自分の大学院で院生を指導するようになって15年間、自分の専門の院生をとったことがほぼない。最初のひとりだけだ。

 

みんなどうしているのだろうか?洗脳しているのか?

 

無理に自分の領域に引き込んだりするのが悪い気がして、できない。

 

初めの頃の方針は、やや昔の国立大学みたいに、自分の関心ある好きな領域を自分で勉強して研究して突き詰めていけということで、何年かはそれでいけてた。

 

しかし、徐々にその院の性質もあるのか、まぁ世の中全体の趨勢でもあったが、入学者の学力低下というか質低下が生じてきて、どうもこちらでみていて「自分で勉強」ができない。

 

そこで課題を与えたり、スケジュールを用意して、ペースメイクしようとしたが、ある程度修論書き上げて就職していく者達にはそれで大体うまく修論書けるように有効に働いたが、むしろ博士後期課程にあがるものには問題があった。

 

博士後期課程に進む者の質低下(よい修論書いた者の方が就職していったり・・・)がある。

 

自分の専門じゃないから細かな指導はできないが、読んだ論文を月ごとに概要報告させるとか、活動報告させるとか、いつまでにざっとした原稿用意するとか指示を与えるが、しばしばうまく行かないことがある。

 

こちらが期待するほど勉強しないのだ。なぜだ?大学院生なのに?

 

こうした場合はどうすべきなのか?

 

ところで「自分の領域」というのは実際研究している領域だから、実験者のアルバイトをさせるとかそういう巻き込みはしている。関心があればそれであわよくば目覚めて「この領域おもしろいですね!わたしもやりたいです!」ってなればいいが、そういう感想は15年間もらったことがない。わたしはよほど世間標準からするとつまらない、くだらない実験ばかりしているのか? 手伝うことで参入してきたという者は本当に一人もいない。人徳がないのかw。

 

それで学習が伸びない件については、どうするか? 3ヶ月くらい待ってから

「君は研究者に向いていない」

と通告して切り捨てるべきなのか? 

本人はでももしかしたら勉強している気になっているのかもしれない。

あまり社会的比較する対象に恵まれないから、どのくらいが「勉強している」うちに入るのかがその程度がぴんとこないのだろうか。

しかし、正常な想像力があれば学会に参加して他人の発表見たら、その背景にどれくらいの学習が必要で、その成果としてこれがあるかは発表見聞きしていたら分かりそうなもんだ。自分のやり方が足りないとはそれで気づかないものなのだろうか?

あなたは、1年後、あんな発表できますか? あれがあなたの一学年上の発表ですよとか見ても、自分とは切り離してしまうのだろうか?謎だ。

 

昔みたいに、ダメだとかパワハラ的に言えないから、学会のあと、いつもゼミで意見、感想を尋ねる時間を設けて、学会参加の感想を聞くのだが、自分の発表にこう言われたとか、特定の興味をもった発表、1,2について感想を述べるだけで、十分生産的な意見になっていないし、特に学習方法や学習量についての反省はよほど誘導しない限り特に出てこない。本当に何を感じているか謎だ。具体的な改善方法も出てこないから、(何でもいくらでもたくさんしゃべれるという能力にそもそも欠けていそうだから)どうも意見が少ないのだ。

 

TYではずっとずっと待って泳がせていたけれどもそれが幸せになるわけでもない。

どうしたもんか。これは春以降また課題になるだろうから早めに工夫を考えたい。

2月

もうすぐ2月だ。早いものだ。

 

11月の母親の骨折、入院からVisaのアクシデントから、移籍までいっきに仕事が押し寄せた11月から12月、もう何をしていたかも思い出せないくらい、学んだこともふっとんだくらい雑務の方が増えて、一部は自業自得だが、意外に帰国する手続きもその後の手続きも面倒なものだった。

 

ひどい話ふつうなら3月までのサバティカルだから3月にしれっと帰国して、誰にも人に会わないまま、失礼~とか言って、無言で立ち去るという荒技も不可能ではなかったかもしれないが、こうして1月に大学に出校していると、やはり学長からの呼び出しや、理事会での審議などの様子からすれば、知らん顔してそのままアメリカにいたら、やはりもっとひどいことになっていただろう。どうやら研究費の全額返済はおかげで免れそうで、でもかなりの部分の返済はあるだろう。

それで2月後半にニューヨークに戻るが、こうなるとこれはほぼ自腹になるのだ。往復のフライトはいいけど、宿泊費が出ないから、自腹だ。後半滞在するAirbnbは決めた。最後だし、でも意外に安かったからニュージャージーと同じほどの値段でマンハッタン内にとれた。ただ、地下鉄の駅まですぐではなく、10分くらい歩く。道が凍ってなければよいが。決定するまで番地が開示されないから評判のなかで「駅まですぐ」ってのを信じてクリックしたのだ。最寄りでも8分、こちらの必要な駅だと11分くらいしそうだ。

 

それで今日は、2月中にフライト代の領収書(カード請求の明細書)出ないと困るから、フライトの予約をした。SPSPに出るから、成田→NY→アトランタ→成田 というわけだ。15泊ということになるか。半月だ。なんか完全に英語から遠ざかってしまっているから大丈夫だろうか? テレビとかでも全く英語を聞いていない。仕方ない。

 

NYで何をするというよりも、締め切りが過ぎる辞典項目を書かねばならない。Visa的な手続き、今後も問題なくUSAに出入りすることを保証するための振る舞いなので、NYUでないといけないってことも本当はないのだ、いやNYUの国際部から書類はもらって来ないといけないし、それが一番の用件ではあるのだけれども。先方の日本人留学院生と研究の打合せは何度かしたりするが、研究用件的にはそれが一番必要なことだ。

 

マンハッタンは2週間しかいないから、どの程度のものをまた抱えていくかは考え中であまりトランクに詰め込んでもアホみたいなので、なくてもなんとかなるものは極力省きたい。缶切りなんか迷うところだ、小さいけど。プルタブ方式のだけ注意して買えば、ツナ缶もスープ缶もトマト缶も買えないことはない。

 

モチベーションがいまいち上がらないから部分的にでも一緒に行ってくれる人を探したが全くだめだ。そんな暇な人はこの超繁忙期の2月にはいない。でも2週間ほどまた自由な1人の生活するのも楽しみではある。それが一生の最後の自由かもしれないけど。

人間観が拙い

教育現場のさまざまな問題は多くあるし、問題だけが目立ち、もちろん問題ないところはたくさんあると思う。けれども一旦問題が出ると、教師、役職者、教育委員会そろってどうしようもない。隠蔽についてはインセンティブ構造で解決ができるかもしれないが、唖然とするのは担当者の人間観がそもそも貧しいことだ。

 

これは先の日記とあわせて言えば、ひどい言い方すれば、

 

バカな教育系大学教授→悪影響を被るバカな教師志望者

 これが多数派を握るバカな教育現場、互いにばかげた影響を相互に与え合う。

 

もちろん教員はいろんなどこの学部学科からも発生するからもちろん「人間教育」なんて行き届くはずもないところから教師は湧いてでる。でも数学科から数学教師とかある理学部の専門学科から理科教師とか、そういうのも必要に思うから、難しい。

 

それに大学で「教育」「授業」したからって「そのように育つ」ものでもない。

 

難しい。

 

だけど、底上げしない限りは絶対悪くなりこそすれ、よくはならないので、諦めずに底上げするに限る。

 

だから、教育学部などの教員は、その教授、大学教員採用時によほど気をつけるべきだ。楽観的な「学校好き」優等生なんていらないから、(ひとりふたりならいてもいいけど)、ちゃんと人間観のできているもの、多様性の分かるものに、日頃から雑談でもつぶやきでも何でもいいからその雰囲気を伝えてほしいものだ。

 

社会の人間観をましなものにしていくには、たとえ効果薄くても教育現場や少なくとも教育に関わる大学教員あたりの粘り強い働きかけや世間に発信する主張あたりからでないと届いていかないと思う。

 

もともと教育系に教師志望者として来る学生なんて、すごくバイアスかかっていて、むしろステレオタイプも思い込みも普通より強いと思って接した方がいい。その思い込みをぶっこわすことなく、現場に入られたらたまらないのだ。