zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

【栓は】お風呂大好き【大切】

温泉の方がもっと好きだがそれはいい。

当然また大中小の風呂栓は持って来ている。

前回書いたように、なぜ湯が溜まらないかというと・・

 

微妙~に、中の栓より穴がほんのいくぶんか広いのですね。

こういうのってちゃんと規格化されていないのか??

しかし、ご承知のように風呂栓というのは、大げさに言えば

円錐台の形で上の方に向かってだんだん直径が大きい構造だ。

だからはめればはまるのだ。

 

しかし、少し穴に入り込んだところではまって固定するから、なんか怖い。なんかの拍子でさらに落ち込んだり、水道管に落下したら、そこで詰まりのもとになる。水道管詰まりとか水の事故は恐ろしいものだ。それで使わなかったのだ。

 

しかし、ちょっとしたもらいもののプレゼント包装のゴム紐みたいのが手にできて、うまく長さが合いそうだ。長さが・・というのは栓についている金属リングに結び付けて、蛇口上部の(シャワーとの入れ替えになる)レバーに届きそう、というか伸びる素材なので、やってみたら見事に届いた。伸びすぎると引っ張られてとれちゃうがかろうじてそうもならず、お湯の勢いもあってちゃんと閉まったままになる。

 

ということで、人がいなくなった感じの午後3時半という洗濯を終えた土曜日の変な時間にお湯をはってみることにした。うまくいった。湯温もよい。あ~浸かれた!!! 極楽!極楽!

やっぱり風呂は浸かるにかぎるね! ちょっと浅めの浴槽かと思ったが大丈夫だ。

 

のんびり洗っていると・・・、あ、部屋のドアが開く音! ジョージ君いたんだね! あまりに静かな男なのでわからなかった。ちなみにすごいステキなめちゃ低音ボイスでしゃべるいまどき受けそうなメガネ男子だ。彼はインドアであまり出かけないが、ときどき食事時間や買い物とおぼしき時間帯に2時間くらい出ていることがあるから、今は出ているのかと思っていたのだよ。

 

仕方ない。ちょっと気がせいて(トイレを我慢したりする経験はこちらは経験済みなので)、気遣って、まぁちゃんと洗ったら延々と浸かり続けることもなく、湯は流してシャワーして、ササッと浴槽も洗って出たよ、ドライヤーも省略。

 

しかし、やはり風呂栓は大事だった。今年度の体験、Airbnb3件、4個の浴槽どれもマイ栓を使わずして溜まる浴槽がひとつもなかった。まぁ溜める気ないわけだな。シャワーのお湯が部屋にこぼれずに排水溝に流れればよいというそれだけの機能だ。もったいない。いや溜める方が水道使用量がもったいないのか? その辺微妙であるが(寒いしそれなりにシャワーだとただ出しっぱなし状態が長くなるので)。

 

ところでアレンタウンの3階はまぁちゃんとした3階でそこにバストイレ洗面あったから、すぐに水が汲めたが、ここはロフト階に洗面スペースなんて全くないので、水を汲む、手を洗うとかいちいち下に階段を降りないといけない。面倒で手をふくとかは全部もってきたウェットティッシュ大活躍だ。ちょっとこうしたコツをつかんで、使いまわしのミネラルウォーターペットボトルにキッチンの水をまとめて入れて置いて、スティックコーヒーも水で溶けるやつだから、もう湯を沸かさずに時々、アイスでなくて常温水コーヒーで飲んでいる次第だ。まぁポットさえあれば大学の研究室と同じってことですね。ただK大はありがたいことに研究室に洗面台あったので随時水か使える便利はあって、思いついたときにさっとTfarで湯を沸かしてカップスープとか味噌汁とかいただくには非常に便利でした。小さいTfarなので今度は大きいポットを用意しておかなくてはならないだろうな。或いはネスプレッソマシンかバリスタIか(K大は共同研究室においてあってコーヒー汲みに行っていた)、でも汎用性がないからなぁ。

 お湯つながりの話でした。

 

 

【マンハッタンも】洗濯したよ【あと5日】

とてもくだらない日常生活記録ですいません。本当に日誌です。

 

今回、15日間滞在という中途半端なことで、しょうもない話、洗濯をどうしようかと思っていた。ニュージャージーでのAirbnbは両方ともアパートにランドリールームがあってよかったが、今度は、設備欄に洗濯機〇となっていないので、どこかにしにいかないとなと思っていた。すぐ近くなら滞在中2回くらい洗うかと、実際荷づくり段階でもどれくらい洗濯できるかで持ち物も変わる。

 

もちろん下着など風呂入ったときにせっせと洗えばいいのだが、ホテルではもちろんそうする。しかしAirbnbでは今回実際そうだが、4組の人々が同居していて、バスを長時間占拠するわけにもいかないし、お湯をはると洗濯しやすいけれども、今回もまた湯がたまらない(抜けてしまう)浴槽なので洗濯しないくいし、そもそも洗濯しているのも印象悪い・・・気がする・・。ジョージにコインランドリーはどこ?と聞いたら、「ないよ」と、「向かいとあっちにクリーニング店が」・・と、どうやらシャツ等はクリーニング店に出していて、彼は昼間もここにいたりするから、テキトーに下着は自分で洗っているのだろう。唯一まともな部屋にいて外に向いて窓もあるから、部屋に日が入り、乾かしやすいかもしれない。こちらの部屋にも温風ヒーターあるが。

 

さて、ネットでググると7分、9分くらい歩いたところにコインランドリーがある。しかし、このところ天気が悪く、木、金ずっと雨模様で気温低い。水曜日に22度あったのがウソのように、また冬っぽくなった。雨のなかを洗濯もの抱えて往復するのはイヤだから少し気温の上がる土曜日まで待った。幸い案外数を詰め込んできていたのでここまでちゃんともった。

 

袋いっぱい抱えた洗濯もん持って、混むのいやだから早めの朝8時に出かけるとわりに客も少なくスムースに。洗濯4ドルは今までより高いがNJのランドリーでもそういうのあった(アパートの安い方で1.5ドルで洗うのはしていたが)。まぁこんなもんだ。

 

見ていると店の人も同じように洗い放り込んで、乾燥機やっている。ドライでなくて、安い請負システムがあるのだろうか。「これやっといて」みたいな。細かいゴタ混ぜの感じの洗い物を洗っているのだ。

 

さて、30分かかるから2ブロック行ったところのスタバでコーヒー飲みながら本を読んで時間をつぶし、乾燥機。これがところによってクォーター25セントで何分回るかがまちまちだ。さぁどう出るか。クォーターをまず一枚投入すると「5」と出た。5分だ、とりあえず3枚投入して15分回してみる。ちょっと15分じゃきついな・・て感じ。やはり終わって触ってみるとまだ湿り気が。乾燥に弱いタイプのシャツだけ取り出して、さらに2枚、あと10分回したら、かなりすっきり乾燥した。

 

通り道に発見した広めのスーパーに帰りに寄ると、ようやくこのマンハッタンでも普通並?の安い値段で物が買えて、それでもNJよりは高いが、カップヌードル3つで2ドル(NJで4個で1ドルだったりする)、大学近くのアジアンコンビニの1つ2ドルと大違いだ。ここまで見かけなかったソーセージ缶も発見。ツナ缶と合わせて購入。なぜかこちらでは飲みたくなってしまうコーラゼロの2リットルボトルとミネラルウォーターも買い、おやつのヨーグルトも仕入れた。

 

大荷物を持って帰ると、週末だからかちょうどホストが掃除に来ていて挨拶、中国系の方ですね。衝立陰に泊っているやはり中国系の人と盛んに話をしている。いつ風呂掃除とかあるのかと思ったら、わたしが日曜日夜に着いたのは掃除のあとってわけですね。

 

リビング、キッチンも掃除され、懸案の洗濯も終わったので、気分すっきり、あとはアトランタのホテルで少し洗えば、帰りまでもつ数量があるので安心。計画がたった。

 

今回の短期滞在では最後なので日本の方ともたくさん会って、政治系の松本先生と意見交換、熟慮性の影響の話をし、清水さんとよもやま話の食事をして、明日は教会とかに一緒に行った熊倉先生とランチの予定だ。23-28丁目界隈意外にたくさんよい店があることが分かり、もし将来も何かあればちょっと4-5日の滞在はいつでもできるなぁという感触。地の利を知ることは大事だから、土地勘ができればまた来やすい・・はず。そんな時間が将来あればよいけれど。学生をオレゴン引率なんてことになったら大変だろうなぁ・・・・。

【仕事の】なんだかなぁ【仕方】

書かなくてはならない辞典の仕事を持ってきちゃっているわけだが、なかなか進んでいなかった。時差ボケでボーとするとかもあるが、まともな机がない。ナイトランプを置く台を机にしようかと思ったが、結局食べ物類やカップなどが占拠している。グラスやカップなどは床に置く気がしないから仕方ない。やはりきちんと作業机のある物件を調べて入るべきと思い知った。

 

このAirbnbは4室(リビングの衝立裏は「部屋」とは言えないがとりあえず)あるが、Webで見てみると、すけすけのガラスのロフトとなりは一日$50でさらに安く、この小屋裏の真下の唯一まっとうな一室は一日$100だ。そのまっとうな$100のところにカギを渡してくれた長期滞在者とおぼしきジョージ君がいる。

 

ニュージャージーにいたときとは逆にここではジョージ君が牢名主の古株みたいな感じだ。確かに彼は1階でもあるし、すぐドアの前がトイレ、キッチンであるからかなり自由に行き来して使っている。レンジも4回連続で何かあたためをやっていて、わたしもそこまでではないが、NJではチキンフィレ→ごはん とか、チーズナッチョ→ハンバーグとか連続でレンジを使用したり、のんびりパスタを茹でたりしていた。湯はレンジでなく、やかんがあったからいつも沸かしたりしていた。

 

ジョージ君はわりに昼間も滞在していて、ちょっと買い物して戻って来たりで、まさにNJのときに私がやっていた感じと同様だ。

 

こちらはいちいち2階から降りないといけないから、下の様子がよくわからないこともあり、ときどきレンジで湯をわかすだけするが、まだ調理するほどキッチンを使っていない。

 

さて、ジョージ君が1時半くらいに出かけたあと、1階にある食卓テーブルにパソコンをおろし、そこで辞典項目を書き始めた。反射的にすぐやり始めた。書ける!!

4項目くらいさらさらと書いた。こういうがら空きの机、テーブルトップがあると途端に仕事ができるのだ。あまりのことに一体どうしたもんかと・・・。昔よりこの症状はひどくなっているな。

 

前からサテンやコメダ、ジョナサンやサイゼリア、時には自宅のなかでさえ、普段あまり使わない部屋に新たな文机とかを2つ置いて執筆していた時代もあった。普段使いの机はすぐに乱雑になるからあまり使えないのだ。それでも自宅の机が一番デカイので、散らかしても少しどけるとスペースくらい作れるので帰国時には無理にPC置いて書いてはいた。

 

大昔はまだそれほどには散らかさなかったのか、研究室が朝霞時代はまっとうにそこで仕事していた。心研、教心研、実社心研3つに連続して書いていたサンタバーバラ帰りのまともな頃だ。ただし、この頃は車で来ていたので、家庭、子どもの状態が許せる機会には夜中2時くらいまで大学で仕事していて、真夜中に車で帰宅するなんてことをしていたのもある。なにしろ、新学科設立というか再編でその再編委員と学科主任を3年間連続で勤めていたひどい時代だったけれど、文科省宛の書類を書きつつ、それでも論文書いていたわけだ。

 

大学での深夜業務ができなくなり、それから家でも夜型なのに深夜仕事ができなく、しなくなって久しいが、それは家でのエネルギーが仕事より子どもを教える方に使っていて、それで疲れて時間を合わせて一緒に寝ちゃっていたからなのだろうな。2005年に朝霞を引き上げになって以来、そういえば、本の執筆などまとめてやりたいときは八王子のホテルに自己缶詰して書いていたり、泊まりを使うようになり、やはり家とは異なる別室で作業を行うクセが強化されていったような気がする。

 

幸い、NYUの机には自分の私物を置いていないから、せいぜいそこも利用して書くことにしよう。Think Coffeeで書くのも好きだけど。

 

これほど環境・状況に容易に動かされやすいたちだとは・・。

 

文京区ではカフェ・ド・クリエを使うか・・・。

目の前のココスは学生が多すぎるし、不忍通りグラッチェはつぶれて、デニーズは気に入らないから使わないしなぁ。

 

アクシデント

昨日はBB(ブラウンバッグトーク)だった。

ジョストゼミのサラの発表が予定されていた。「男らしさ」Manhoodの問題。男性性へのこだわり、要請と政治態度(保守性)との関係。

だが、一人目の発表の途中で警報が!

 

 

写真手前右側がジョンゼミの一部の面々。警報は鳴りやまず、みんな仕方なしに建物から退去。サイコロジー棟の向かいの歩道に。

すると、消防車2台がやってきた太いホース抱えた消防士が建物のなかに・・・。火は見えないからボヤかな・・・。と思ったら、なんと訓練だったようです! しかしちゃんと消防車が来る! みんな551からそのまま出てきたので、コートもなし(この日はでも気温18度。寒くない)、荷物もない。戻れるまでここで待っているしかない。どれくらいで終わるかのアナウンスはない。(近くにスタバやThinkCoffeeはあるけど)

 

わたしは10日間だけなので、あえて新たなに部屋のカギをもらわなかったので、荷物全部抱えたまま動いていて、幸いそのままで出て来れた。トーク前に誰もゼミのラボにいなかったので荷物を置けなかったのだ。1時半を過ぎちゃったのでわたしは時差ボケでめっちゃ眠くなり、疲れてもう帰りましたよ。

 

ちなみに翌日、やはりラボのカギはもらいました。待ち作業時間とかあるし、木曜もトーク、金曜もリサミとかあるので。

新たな住まい(Airbnb)

18日にNYにまた来た。10日ほどいて、アトランタに行く。

またAirbnbだ。一度くらいマンハッタンに居てみたいと思い、探した。意外にこの辺、安い値段であるのだ。シェアだもんね。NYUのMLでも短期のサブレットが出ていたりする。

これは一日6500円だ。マンハッタン内ではまぁ安い。

 

しかし、入って驚いたことに二階があった。階段の上がわたしの部屋と案内してくれた長期滞在風のジョージ君が案内してくれた。

最上階の6階なので、上のロフトというか小屋裏があるのだ。まぁでもロフトというには日本でのイメージよりもしっかりした階段ついているし、上の空間の利用だ。しかし、上の部分にドアをつけてさらに2室にわっている。

 

母屋下がりしているので頭をぶつける。で上のような写真に。壁も天井も同じ真っ白なので、危険が目に入りにくく頭をぶつける。だから色のはっきりした目立つものを貼りつけておいたらぶつけないだろうと。知覚的なアフォーダンスの利用である。カイロの袋が赤いのでそれを貼りつけておいたが面積が小さく、もうひとつ大きく行きたい。ここで、カレンダーの前の月のとかあればちょうど好都合なのだが、到着したばかりで何もない。そこで、一番ボロイ?パンツを天井に張り付けたw。色がしっかりあるからしかもちょっとぶら下がったような状態で(セロテープで止めている。セロテープは持ってきた)なかなかよい。見苦しいが、これで頭はぶつけなくなったよ。

 

しかし食料品の値段が高い。NYCとNJで全然違う。

 

昨日は、前の住居近くにバスで行って、買い物して帰ってこようかと思ったが、ちょっと疲れてやめた。アジアンスーパーで適当にカップ麺とか缶詰とか当座のを買った。高い。でも、バス$3、戻りPATH $2.75 (ライトレールは一枚残っている)かかることを思えばまぁいいかと。でも25セントで買えるカップ麺が$1.99だったから3個買っただけで$5以上よぶんにかかっている。侮れない。

 

コインランドリーもないことが分かったので、木曜か金曜に洗濯ものリュックに入れてNJのスーパー隣のランドリー行って、それで買い物してついでに横の中華屋でテイクアウトでもしてくるつもり。

 

火曜日BB、水曜日科研打ち合わせ、木曜トーク、金曜清水さんと情報交換・・結局毎日出掛けることに・・・。辞書は進むかなぁ・・。まだ時差ボケで調子が出ない。

塾文化

自分の体験でものを言うととっくに古びているかもしれない。

 

だからそういう怖れも抱きつつ、塾に集まることを考えてみる。

近畿、首都圏以外の経験を持たないので、そうした都市部しか分からない。

 

そこで言えることは、一般に小学校は多種多様の集まり→塾に行くことで同類を発見。

 

こういうことだ。だからもちろん両方あっていい。

 

成績がよいものもそうでないものも、学校のクラスではいろいろである。また地域柄特色のある学区域もあるかもしれない。塾ではそれと異なる新たな人間関係が発生する。場合によっては学校のクラス以上に仲良くなり、わかり合える友だちを見つけることもある。少なくともその「出発点」にもなり得る。

 なぜなら、同じ塾に通っていて、さらに同じ中学に進学すると同志感覚がさらに増えるからだ。

 

それほどでなくても、「弱いつながり」を構成する利点から言えば、多種の弱いつながりは有効で、学校だけだと場合によってはイジメとか行き詰まることとか、担任教師と合わないとかあるが、塾では異なる経験ができて、「自分はクラス以外での生き方を持ち得るのだ」という気持ちを抱くことが可能だ。まじめにこれは自殺防止にもなる。

 

クラスで評価されない子が塾でほめられたり(いわゆる「下のクラス」でもちょっとしたことで塾教師は成果をほめることがある。人間的に必要なだけでなくて、経営的にも求められているからだ。塾を好きになってもらわないと、子どもにやめられると経営が困る。学校と違って塾はいつでもわりに簡単に辞められる)、自分と趣味やレベルが合う子を見つけて友だちになったり。

 

おとなでも実世界で趣味の合う人間をなかなか見つけられないけれど、ネットならということはいくらでもあるだろう。小学生ではネットを自由にという環境にない子もいるから、塾というオルタナティブ・ワールドで探索の機会が増えるのだ。

 

また、いわゆる「できる子」にとっても、小学校の勉強は簡単すぎて、またでき過ぎることが学校のクラスでは「浮く」ことにつながるのが、同じくらいのレベルの子が集まる塾に行けば同志が見つかる。趣味や関心も頭の回りやすい子的な関心の向け方やその論評、スタンスをわかり合えるというか「コミュニケーション可能」ということもあり、とっても嬉しいし、楽しいのだ。

 

塾の休み時間や行き帰り、たぶんしばしば学校のクラス内よりもいきいきと楽しそうにしているやからはいると思う。もちろん常にその逆もあるから、がんばって上のクラスについて行こうと奮闘しながらうまくいかないで鬱屈を抱く子どももいるだろうし、親のプレッシャーの与え方次第も、「塾」というのに子どもが関わるスタンスに影響を与えるだろう。だからプレッシャーは極力減らした方がいい。「とりあえず、その場その場でまじめにきちんとやる」ことの積み重ねを注意していくのが無難で、実測値が揺らいでいく模試の成績にあまり一喜一憂して、次のテストでは「絶対、○○以上」とか「αにいけ」とか過剰にプレッシャーにするとキツイだろう。「・・・だったらいいね」くらいに目標を据えるというか、本人の希望も見極めながら「目標を共有する」のがいいだろう。

 

いずれにしろ、学校以外の校友のチャンスはあった方がいいのだが、無料ではない限り、ここで収入レベル、経済階層によるチャンスの多寡があることも残念ながら事実だ。単にさらなる学習の機会を平等に確保するなら、塾無償化的に公立小学校に7限、8限を設けて学校の先生の残業ではなく、自治体からのバイト料で塾講師的な者が教えればいいのだが、オルタナティブな校友の場にならないばかりか、できることが限られる。

それにいたちごっこでどんなに公的な場で教育時間を拡大しても、「もっとすごい特別の教育」を謳う民間業者は必ず出てくるし、教育ってそれだけ多様に工夫できるのが事実であるから、「全部を全員に包み込める」はあり得ない。差を減じる努力はあり得ることだけ指摘しておくが。それに塾教師にしろ、ふだんの学校での教育にしろ、もっと個性に合うように工夫することを教師の実力だとすれば、用意されたカリキュラムも教師の質も全くそれを保証できる状態ではない。給与のよい会社の会社員なみの給与を教員に払わないと、それだけの工夫ができる質の教師は養成が難しいと思う。結局、その社会が教員的な役割の者をどう収入面でも遇するかは、その国での教育レベルに影響し、結果将来の国民のレベル(政府や政治選択にも影響する)にも影響し、日本のように教師の学歴が低ければ結局国民の学歴も低くなり、官僚や政治トップが博士号さえもっていないという低学歴国家になる。そういうことだ。

 

また上を育てるだけでなく、柔軟な人間観を持ち、多様な子どもに充実感や達成感をそれぞれ抱かせるのは相当な技が必要である。こうした教職プログラムは現在あまりないので、教師は無手勝流で現場で結局「自分の趣味嗜好に合う」子どもをえこひいきするしか接し方がよく分かっていない教師達を量産するのだ。これは本当に子どもの全般的不幸を体系的に増幅する仕組みがそもそも組み込まれているといっても過言ではない。教師の心の柔軟性を高めるのは教師育成上、最も重要で子どもの命に関わる課題だと思っている。