zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

知的なレベル

それで、むしろ問題なのは大体こういったところで話が止まっちゃうことだ。メディアが嘆かわしいとか、日本人の非理性的な点とか山ほどの言説があるし、それくらいはちらちらとワイドショーでも触れられることがある。

 

テレ朝の報道ステーションに招かれるリベラル言論人でもときどきそういった方向で話をして、要するに結論は「国民の自覚を高めよう」そのためにこういった「報道番組は一所懸命啓蒙すべきだ」ということに尽きる。

 

で、何も動かなくて、40-50年経っているだろうか。

 

だったら、実証科学としては冷静にもっと分析したらどうか。アメリカでも結局そうなのだろうが「国民全員が理知的であるのは不可能である」と。

 

とりわけ日本のことに絞るが、論理的な回路から「正しい」ことを訴えても効かない。これは最近私が東大の40周年やら何やらで機会があれば主張していることである。(心理領域ではそんな論文書けないから論文化がうまくできないが)

ただ、政治的メッセージのフレーム研究なんてのはあって、情緒に訴えかけるものが効きやすいとかの成果がある。結局わたしが昔やっていたポジティブ気分はヒューリスティック処理って要するにこのことだし、私が含意していたのはまさにそういった事態だ。みんな日常がんばってポジティブにいようとするし、放っておいてもポジティブな人もいるが、それは引き換えにシステマティック処理を遠ざけることになる。「楽しい」テレビにシステマティック処理は似合わない。

 

さて、だったらもうちょっと議論を進めた方がいいのではないか。大学の教授会や雑談でもこういった啓蒙派というかリベラル知識人が多いわけだが、もっと有効で現実的な取り組みはないのか、考える気はないのか・・・ってことですね。

 

啓蒙は高みに立ってものをいう、「教員」という存在様式に実にぴったり合うからそこで満足して止まってしまいがちなのかもしれない。

 

国民の大多数がそもそも熟慮しないとしたら、どういう社会設計ができるか。ひとつのヒントを与えているのは、あずまんの「一般意志2.0」だ。みんなこれくらいは前提にして議論すればいいのに、文系の大学教員のくせに読んでいない者が実に多く、そういった知の到達点を無視して、くだらない議論にあけくれて、世間を憂いている。知識水準が低いのは国民だけでなく、実のところ大学教員自体もそうなのだ。今は特に低偏差値でも大学院があるし、ひょんなことからそこから大学教員になる人もいる。自分の専門領域についてはかろうじて教授することができるかもしれないが、そういう人は往々にして(なかにはスゴイ人もいたりするのだが)知識の領域が狭く、また分厚くなく、思考の深さも浅いものだから、表層的な心理学研究が一体何によって支えられているのか、それがどういった社会的な効果(特にマイナスの効果)をもたらすか考えたことすらないという程度の者もいよう。実に浅い授業しか展開できないわけだ。

 

ここで啓蒙主義を主張するのではない。「それが現実である」ことが大事だ。つまり知の専門家らしく世間的には見える大学教授でさえ、知が低いのである。本人のせいだけではない、知が膨大に広がり、専門分化していった現代においてすべてに通じることはあり得ない(だから有効にそれぞれの専門家の意見をきちんと訊ね、参照する姿勢が重要なのだが)。SNSだって優秀な学者が自分の専門領域以外ですごいバカなことを言っているのは日常風景だ。育児や教育など特にそうだが。つまり正確には現代とは、「賢い者」と「バカな者」がいるのではなくて、同じ人物が「時に賢く」「時にバカ」になるシステムなのだ。2.0にはそういうことも書かれている。

 

今やネトウヨやいろんなばかげた言説や信念をぶつけまくる光景はツイッターとかで顕著であるし、これは話し合えば理解し合えていつか結論が導けるという日本人の好きな「話し合い絶対主義」を打ち壊している。もとから「対話しよう」「人の話を聴こう」などという姿勢をはなからもたない確信犯がことばだけ垂れ流しているのだから。

 

それを馴化させたり啓蒙したりすることは無理です。無理から出発しないと。

 

だから互いの信念をすり合わせて、結論を見出す様式は無理である。無効である。それこそが民主主義だと思い込んでいる人もいるのだが、想像力が足りない。どうしたら民主主義、国民主権を保ちながら、無理な話し合いを避けるか。

 

2.0では簡単に述べれば理知の部分は私的領域に、感情の部分をむしろ公的領域へとの逆転戦略を認め、感情の部分をグーグル的ネット技術でベクトル的に集約すればいいと考えている。ビッグデータの活用である。古い本だからそれ以上は具体的に書かれていないが、今の技術なら見通しが立つ。いい感じ、いやな感じみたいな情動的反応を集約するのは容易だ。人工知能ではすでに人の理知的な部分よりも感情的な部分の方がシミュするのが楽だと分かってしまっている。感情はわりに簡単なんだ。

 

ただ、2.0の限界というか批判を要するところは、その「集約」(単なる総計ではない)を行政や政治家が参照して、熟議も生かしつつコントロールをという無意識を意識の光で照らしてコントロールを回復して治癒するフロイトをひいて説明しているところだ。無意識と意識のバランス、相互作用、制御は今、心理がでホットな話題だが、簡単でないから議論される。そのコントロールに邪念や悪い意思が働いたら終わりじゃないか。どうしてそのときの「政治家」が今より信用できるのか。

 

いずれにしても人間の半分理知的というか「認知」に属する信念みたいなところの集約は諦める、それは相対化されるしかないと理解して放棄する。おもしろいアイデアだと思う。いつまでも対話可能、相互理解可能、そして集約可能、あるいは多様性の尊重で済む(テロに対してどうするのか? 多様性を尊重して殺されるのか?)わけでなさそうな今の現実の社会、あるいはもしかしたら人間の本質というところから考えると、人間の認知、理知、理性から離れた「外部」に政策方向決定の自動的人工知能的システムを導入する(これですますことに東は反対している)ことを一度やってみたらどうだろう。そして一旦社会を進めてみて、今も噴出してる矛盾がそのときはそのときなりに別の問題が噴出して、また直していけばいい。まずは、「わたしたちの個別的な思考」(人権と個人主義からもたらされた発想だ)によって統治形態が基礎づけられるという発想を一旦捨ててみてどうなるかやってみた方がいい。  と思う。