zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

土人の自由

昨日ジョンのリサミはポピュリストの話題だったので、ついでに考えたことをメモ的に記しておきたいと思います。

 

土人」というのは正式に差別語とされているのかどうかわかりませんが、近頃では沖縄での基地反対闘争に関わって現地の?方たちを「土人」呼ばわりしたことが話題となりました。

 

しかし、ある意味ちゃんちゃらおかしいことに日本人全体が土人です。これはある意味西洋的文脈ですが。

 

土人とは植民地政策が繰り広げられていた帝国主義ヨーロッパがアフリカやアジアに進出した際、当然彼らが訪れる前からそこには人々が住んでいるわけで、アメリカ大陸のように大量虐殺したり、掃討に近いことをするという侵略以外に、土地や権力を乗っ取って、現地協力者を見出して間接統治したり(植民地政策でよくやる取り込み方)などさまざまなことが行われてきました。

 

土人は、当然に西欧文明とは違う価値観、地点に立ち、現地的歴史文脈のなかで日々の生活を送っている。これをコロニアリズム的観点、あるいはアジアにおいてはオリエンタリズム的な好奇心の目でとらえるしかなかった西洋社会から見て、日本では日本列島にのっかって生活している土人たちであったわけです。

まじめに言って、そのあと、近代化、産業革命、技術革新と続いていって、ある観点から整理すれば土人的価値観とは西洋近代的価値に従わない文化と定義できます。

 

であれば、21世紀の現代日本も土人の集まりです。なぜならそこに近代がないからです。これはもちろん私だけが言っていることではなく、広く社会科学を論じる人の間では常識かと思いますが、近代法的体系を中心に科学合理主義を奉じて社会の骨格を建てるという近代価値からすれば日本社会はその「フリ」をしているだけで、従っていないからです。法の運用においてしばしば逸脱に寛容ですし、一般社会はたいていの紛争を法で解決したがりません。情をもった3方一両損みないな裁定を理想の美談として、穏健に解決できるように話し合ったり、あるいはリンチ的に社会制裁したりすることでこの社会を運営しています。法にこだわることはむしろ日本では「おとなげない」こととされていますから、日本人の大人の理想としては、「法を越えた規範にしたがって生きる」ことは明らかでそういった点では社会の骨格を法に頼らず、日本社会にある慣習的規範によって運営することの方が好まれているわけです。

 

しかし、国際的な企業はそんなことは言っていられませんから、20世紀終わりごろから徐々に「コンプライアンス」などと言われるものが言い出され、これは日本語では「法律遵守」ですから近代国家ならば何をいまさらといった話です。談合やお友達優遇なども法よりも慣習的規範を重要視する社会ならば当たり前のことであり、実際ほんの10年くらい前なら問題にされることもなく、当たり前であったかもしれません。権力者は得をするものであり、行き過ぎはいやだけど、まぁそういったことがあるのは仕方ないよねってわけです(このあたりの前近代マインドは東アジア3国で共通のものだと言えます。価値的に 内集団尊重(忠誠規範) > 公正、正義ということです。なぜなら権力者は法に基づいて自分たちが選択するという本来の意味の国民主権ではなく、明治以来のなんらかの既得権益をもったリーダー層、エリート層が一般大衆とは別に存在して、そういう人たちが政治なるもの、江戸時代にも続く「おかみ」となり、おかみの言いなりに普段は暮らすが、巷では文句を言うという精神構造はなんら江戸時代から変わっていないからです。

 

明治維新は主に士族のなかから出てきた反乱、最終的に徳川の権益を奪取するといった権力闘争であり、市民革命ではありませんでした。身分は上から解体され、士族が廃され(貴族として残ったりしましたが)、国民皆兵的な下からの軍隊をつくることがなされた。そういった改革でしたので、「行政的権限がどこにあるか」という点では、議会政治の請願や民権運動が盛り上がるまで、社会というものに対する近代的理解は庶民の方で追いついていないというか、全く理解しきれていないものであり、政治は全く庶民の他で行われるものという2000年前からの価値観をずっと継続していた側面が大きく見られます。

 

これはこれで日本社会の特徴として開き直る手もあるわけですが、先進国のふりをして国際政治にかもうとすると無理が出るのは致し方ありません。

 

さて、そうした近代が達成されていない社会、とりわけ国民主権や民主主義が根付かない社会においてはポピュリズムというのは当たり前の現象であって、もっと言えば唯一の政治参加の仕方とも言えます。

近代合理主義が浸透していないわけですから、科学的合理的に選択をとろうという志向がそもそも存在しないので、選択は人気投票にならずに成立することはありません。これはイメージの闘いであり、戦後よくあったように、この方が豊かになりそうだとか威勢がいいとか、何となく信頼できそうとか、知り合いに勧められたからとか、町の偉い人だからというのも同じ範疇です。すべて「ヒュ―リスティック処理」による判断ですね。

 

合理的思考をしない最大の欠点は、まっとうな未来予測や、長いスパンで物事を考え、戦略をもって事を行うことができないことです。

 

まちがっても外れても戦略を持つことが当たり前である社会と、そうでないイメージ社会では異なります。イメージや雰囲気などの感情主導の社会は、常に感情と言うのはおうおうにしてその場の「反応」ですから短期的な「今」何を感じるかに基づいて動かされてしまいます。

ですから、日本ではこれまで多くの場合「増税」という短期の痛み(自己制御)は勝ち目がなく、長期的利益のために短期的報酬をがまんするという構図が適用されにくい社会状況にあったわけです。自己制御は多くの場合、長期的勘案に基づく理性の結果ですから。

 

アメリカ社会では、ながらくこうした理性に基づく自己制御、ポリコレ疲れみたいなことがトランプ現象の説明にも持ち出されることがありますが、日本には当てはまりません。ポリコレは全く達成されず、社会目標とすることを一度も国民的合意されていませんし、そんなこと日本歴史上一度も目指されていないのに、疲れるなんてあり得ませんから。

 

思った感情を言いたい放題で議論する(周りと同じ、同調しそうなら)という意見、態度は、社会的平等がさして進展していない証拠としていつの間にか男女平等という先進国の目標に遠く置いていかれている日本の現状が示す通りです。(このようにさまざまな差別の是正におくれをとることになります。基本的に差別の是正は理性のがんばりななので)

 

近代的理性に基づかず、直観的に言いたいことを感情的に述べてしまう。これが日本土人の特徴です。近代原理の外にあるわけです。土人社会ではリンチが当たり前ですから、気に入らない人や現象を寄ってたかって血祭りにするということも行われます。近代人はこういうことを意地でも口をつぐんで理性的に制御しようというところから市民の資格を考えるからです。だから初期には「それは女性には無理だから」と女性差別がなされていました。それは女性が「感情的な生き物だから」という偏見があったからです。政治的意思決定に関与する市民は理性的な存在であるということは西洋の社会運営ではもともとは当然の前提の命題だからそういった(残念な差別的)経過が生じることもあったわけですね。

 

自分の社会をどう運営しようが、現にその列島の上に乗っかっている人々が合意できているならば、それはよそからああのこうの言われる筋合いもないわけです。自分たちで「素晴らしい日本」と思っていられたらそれはステキで文句ないわけですから。土人でいて何が悪い。土人として振る舞う自由をわれらに、みたいな。ポストコロニアリズム的にはありですよね、一種。

 

ただ、長期的視野で戦略を立てられないという副作用は現代社会においてはジワジワ効いています。

 

次のことがこの長い文章で一番言いたかったことです。

 

アメリカからすごく第三者的に距離をとって、余計な詳細な知識をとっぱらって眺めていると、「日本という国は、一所懸命強い意図、意志をもって、同じ東アジアという地勢、位置においては、中国の後塵を拝そうと後退している、あるいはそう動いている」ように見えるということです。

 

(たった半年日本を離れているだけなのに、なんか偉そうにこんな風に論じてごめんなさい。英語もろくにできないにわかアメリカ在住者なのに。でもTVニュース見ていて自然にそう思えてくるのです)

 

とても不思議じゃないでしょうか。西欧的世界からしたら、本当にこれは疑問だらけの????なわけです。もちろん中国国家は近代性とはまた関係なしにいにしえから「戦略」が好きで、当然に昔から大国意識がありますから、世界のなかの中国という視点を常にもっていますし、そのための戦略を政治家なら当然考えます。

 

日本は新しい技術による発明を抑制し、IT革命を後退させ、ITと社会の関係の取り結びに消極的であり、新しいビジネスを打ち出さず、粉飾決算やずさんな安全管理の自動車やエアバッグなどズルいことばかりを懲りずに繰り返し、知識社会到来に備えず、研究・教育予算を投じず、未来社会を見据えて新しい世代、若い世代に益となる予算投入に消極的で、(悪い事ではないが)未来には存在しない高齢者にばかり目を向けた政策をとることによって、どんどん東南アジア社会から追い抜かれて行って、アジアでひとりだけ勝手に後退している。そして先進国のなかではひとりだけこの10年経済的な成長をせず、じっとして、沈んで行っている。

 

素直にいってそうしか見えません。なぜそんなことをするのか、理性的な分析をすれば疑問だらけで、その理由を教えてほしいという(実はそこまで興味はない・・なぜならアメリカ社会は負け行く者には冷淡だから。組んでも得にもならないし)くらいでしょう。

 

でも日本人の多くは(たぶん)そうした自分たちの土人性が好きで、そのままでいたいから、別に自己改革する必要も感じない。ただ、その結果、低成長になり、予算不足で閉塞的な感覚が社会にはびこります。

 

わたしが最近読んだなかで一番盲点で「ああ、そうかも」と気づかされたのは、「永続敗戦論」の白井聡内田樹の対談本「日本戦後史論」(徳間書店)のなかで、「破局願望」があるのではという指摘でした。閉塞が煮詰まるとちゃぶ台返しというか、もう全部ひっくり返してがらがらポンしたい(場合によってはもう一度戦争して負けるとか)とかそういった潜在欲望がふくらんでいるのではないかということです。

 

内田樹はとんでも本もあるし、いい加減なこと言いまくりで、とても理性的な論客とは言えませんが、わたしは時々彼の書く一言や分析に「あっ」と思うこともあります。武道家という点で信頼できる何かがそこに備わっているものがあるからかもしれません。

 

重要な指摘は安倍首相その人自身にこの潜在的破局願望が備わっているのではないかと言う指摘です。ならば、あえて危ない選択肢、むしろ自分の理想や目標達成から言えば「損で不利な選択」さえもやらかす理由が頷けます。 

 

システム正当化というジョンの切り口以外に、若者の間にはびこる安倍政権支持の心性の深い部分では、こうした「破局願望(の共有)」があるのではないか。だから周りが理性的な反論やその進む方向の「危険性」を口にしても響かない。むしろ「危険」のなかに入っていきたいと思っているからでしょう。「こんな日本社会は一回壊さないと、チマチマした「改革」程度では動かなくてダメだ」という暗い気持ち。それは本当だとしたら恐ろしいことですね。どうでしょうか。

 

もしかしたら、みんな「バルス!」が夢、願いなんですかね。

「こんな間違った日本はぶっ壊す!」なんてね。