zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

リベラルとは何か、「さよく」とは何か

心理系の方でこうした関心がもし薄い方におかれては、永続敗戦論や日米関係についてあまり書籍を読まれるということがないかもしれません。捕捉します。

 

わたしが治外法権についての怒りを初めて感じたのは中学か高校かわかりませんが、沖縄で米兵が女子に乱暴を働いてそれを日本の法律で取り締まれない(捜査することさえできない)という理不尽な事態があることを知ったからです。

 

対米自立が政治的選択として正しいかどうかは開かれた議論においておくとして、政治戦略というものは本来「ありとあらゆる可能性について思考実験的に考えてみる」ということですね。こういうことはあり得ないと決めてかかったり、タブーだから踏み込まないというのは科学的な思考ではなく、何でも考えて、議論してみることです。

 

そうした基地の治外法権に疑問を感じるということから発していますから、10-40代比較的明確に左翼的志向性を持っていた私は、沖縄解放という左翼的な立ち位置からの対米自立がなぜできないのかの問題意識で考えていました。ナショナリズムは右翼のおはこですから、ナショナリズム的観点から捉えれば、「自国の領土を他国に占領されている」ことに怒りを感じるのは、右翼の方がよほど強く感じるべきことであって、確かに70-80年代までの右翼はそういうことも言っていましたが、右寄りの政党であるはずの自民党がそういうことをほとんど言わないのは、高校生心にも実に不思議なことでした。なぜかに興味ある方は前記事の本を読んでみてください。最近はこの本よりも少し進んでNHKが夏にもGHQ統治下の映像を流していたり、東京裁判の検証をしていたりしましたから、以前より議論する空気は醸成されているのでしょう。

 

乱暴にひとことで言えば、戦争責任として天皇を廃して、日本から天皇制を取り除くという対処をしないバーターに戦後多くの政治家が(自分自身の地位の温存ということを含めて)GHQに協力した(あるものはCIAのエージェントとなった)という歴史的事実がアメリカから開示された公文書からも明らかになったという近年の知識界での常識の実証的確認が進んだということです。敗戦国として未来永劫アメリカの下僕として従うという約束のもとに自らの地位保全がなされた者たちが大勢いたということです。それが現在の自民党を形成していますから、自民党はアメリカの言うことを絶対に聞かないといけないわけで、これは都市伝説でもデマでもない、歴史的経緯ということです。

 

もちろん、一応独立した国ですから、「昔約束したが、わたしはこれを破棄することにする」という政治家も現れていいわけですが、。。どうなるかは分かりますよね。

 

戦後ほぼ一貫して長期にわたり政権を担ってきた政権党がこういう経緯を持っているのですから、日米交渉を行って、治外法権を改善するとか積極的対策を打ち出さず、戦後70年以上たってもなかなかに沖縄の現状が改善されないのもうなずけます。近頃は忖度が流行っていますから、アメリカがもうグァムに引き上げて構わないと言った部分も「どうぞ居てください」という談合によって思いやり予算をつけてあえて「必要以上に居てもらっている」部分もあります(実際の戦闘になったときの戦略的意味さえないのに)。

こういう点から見て、論壇においては、日本は十分独立国の体を成していない、アメリカの属国である。ということは常識化しているものと見えます。

 

ここで「日本の誇りは・・・」とか言い出すと右翼みたいになるわけで、前回の記事も別に右翼的に日本の誇りは・・と言っているわけではないことを註記しておきます。しかし、国であるからには国旗への尊重の強制とかは脇に置いておいても、自分の生まれ、住んでいる国を素直に愛する、愛着を持つというのは健全にあっていい話で、社会心理学でもナショナリズムパトリオティズム愛国主義)を分けていますね。ナショナリズムの主体は国家、政府にあり(自国家が他国家に優越的に振る舞うことを志向し、そのためには個人が国家に尽くす)、愛国心は個人の心情です。

 

もともとアメリカの属国状態ですから、ある意味個人の心情としても傷つけられている人々かいるかと思いますが、近年の国境紛争で、自国領土が脅かされることで、さらに「日本人としてのプライド?」が傷つけられると感じる方々がいるのでしょう。こうした機会を経て、ネトウヨも成長し、右寄りの世論が日本のなかで成長、拡大していった経緯があります。(ところが右の人は不思議にアメリカ寄りで、アメリカと仲良くしたがる(これを宮台はアメリカのケツなめと敢えて挑発的下品な言を弄して指摘していますね))

 

さてこうしたナショナリズムは定義上、自国を他国に対して優越させようと欲望する傾向性ですから、局面によっては排外主義となり、本来は必然的結合ではないのですが、おうおうにして、自国内にいる他国人を排斥、差別しにかかる(典型的に在日朝鮮・韓国人に対する差別やヘイトクライム)。

 

戦後日本政界がある意味冷戦の代理人みたいなもので、アメリカから支援される自民系とロシアや中国から支援される社会党系の2大政党制で、その点どっちもどっちということから、現在は、社会民主党など左よりもものはすべて「中国の手先」という言説が幅を効かし、「さよく」の有効性は消滅しました。本来、へんに親中国ではないリベラルというものが政策的に存在していいはずですが、現在リベラルというと国境紛争に寛大あるいは腰が引けた日本の国益を考慮せず、(場合によっては中国に益する)うらぎり日本人であるということがなぜか社会的大衆的定説になったかのようです。

さよくやリベラルのレッテルを貼られると、日本の国益を損なうやからというのと同義のスティグマになってしうまうのですね。

 

不幸なことです。もっと健全なリベラルは構想できないのでしょうか。

 

先のナショナリズムから基づく排外主義に対置すれば、ダイバーシティへの理解、寛容、粘り強い慎重な討議、多くの配慮による意思決定、熟議による民主主義などを奉じて戦う勢力があっておかしくないはずですね。政策的対立軸としては明確です。

あるいはこれに「遠く国外では自衛隊は戦闘しない」とか「原発0を目指す」とか加えてもいいかもしれませんし、輸出企業は損してもいいから、輸入食料を安く購買したい消費者の立場から円高を容認するという立場もあっていいかもしれません。

 

しかし、対立軸は観念的に明確であっても「差別するぞ」という具体的行動に直結しやすい(ヘイトスピーチ行進など)排外主義に対して、「ダイバーシティを奉じる」というのは抽象的、観念的な旗印になりがちな点は指摘できます(レインボーパレードとかありますけど、まだどうもそういったものが大衆的に熱狂的に受け入れられるというマインドにはほど遠いような・・)。少数に配慮するのは多数のわがままを通したいというテーゼよりも論理的に少数になりがちですので、「大衆動員」の決め手に欠けるわけですね。

 

いずれにしても、現代日本人の頭のなかから「さよく」ということばを書き換えて、なんからのメッセージを出さざるを得ないときなのかなと思います。

 

今、希望の党に受け入れられない民進党左派の人たちが今週中に新党を旗揚げしたいという話が出ていますが、どういった「ネーミング」をするか見物です。

 

ジョンのゼミでの議論では、ポピュリストは右派だけに限らず、左のポピュリストの話もあるのですけれども、ヨーロッパでは今も元気に旧左派政党が衣替えしながらやっているわけですね。どうして、今の日本人はここまで左派ぎらいになってしまったのでしょうか。自分は今、立ち位置が中道左派くらいかなと思っていますが、もちろん政策的にはもう左右という古い分類(こういうのを古い分類というのも簡単に言いすぎで国際的には十分重要な次元であり続けていると思います)に基づかないさまざまな選択肢があり、イッシューにより態度を明確にしていかないといけないわけですけれども、2017年現在、ここまで資本主義、金融資本主義、グローバリズムの徹底の弊害と限界を見えてきた現代世界にあって、いわゆる資本主義でも社会主義でもない第3の政治・経済運営方法が真剣に模索されている世界にあって(先進国のなかで)日本だけがやたら右だらけ・・・(世論も?)というのはあまり賢い国の運営方向ではないように思えます。もっといろいろな可能性を自由にオープンに闊達に議論して、経済政策と予算の配分方法についてもっとまじめに議論をするべきときだと思いますよね。

 

「リベラル」とは本来そういった言論や思考、行動の「自由をさまたげない」こと、オープンで抑圧を嫌う寛大で開放的な態度をさしていたものではなかったでしょうか。人が圧殺されないひとりひとりの個が尊重されるそうした自由を愛することではなかったのでしょうか。