zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

偉い人と立派な人

上に立つ人とはどんな人でしょうか?

 

これは質問自体がいくぶん土人的です。土人国民主権を有用に用いませんから、単なる自分たちの代理、ある意味では下僕として仕える政治家を選んでやるという意識を持つのが難しいです。

 

すると、「議員さん」を選ぶのは、大昔からの心性と同じで、たいてい議員さんとは偉い人、偉い人がなるもんと、思っています。

 

昭和的かもしれませんが、子どもの頃、自分より(家父長的に)偉い父親が頭を下げる庄屋さんみたいな人がいて、その庄屋さんがさらに頭を下げる議員さんがいたら、議員さんは偉い人と思うでしょう。

偉い人の善政にすがるみたいな心性でいれば、偉い人はちびっと偉い人が紹介してくれる。だから、庄屋さんがこの人に投票したらよいといえば、みんなそれに従って投票する。もちろん村やその地方の実利があると説得されることもある。そういった顔役は冠婚葬祭の行事に顔を出し、顔を売る。

 

さて偉い人は立派な人とは限りません。単に偉ぶっているだけの人かもしれません。立派というのもあいまいなので、ちょっと筋をずらして合理的に尊敬を受ける人としましょうか。立派な会社に就職して「一人前」になって故郷に帰ると「君も立派になったねぇ」と言われます。昔ながらにとりわけ男性が伝統的性役割観的に「正しく」「よい」会社に就職すれば故郷に錦を飾り、ほめたたえられるわけです。時代の制約を受けますが環境適応的には「合理的」でしょう。だから本当のことを言えば一見合理的だからと言って正しいとは限りません。

 

そもそも心理学者はその点意地が悪いので(ちゃんと言えば懐疑的なので)、「正しい」ということばはたいてい正しさがないときに使います。正当世界仮説とかですね。実は正当でないことが分かっているから敢えて正当という幻想を語っているわけです。皮肉ですねぇ。

だから「正当化」ということばはたいてい「本当は正当でないものを無理やりごまかしてしまう」ことを言います。でも本当に信じている人からすればそれは正しく思える。まぁでも正義ってそういう側面がありますよね。だから正義同士闘う戦争が起こるわけです。

 

でもある正義を信じる者はまじめに信じています。近代的には本来の正義というのは合理的に正しいことですよね。数式で証明できるとかが一番いいですけど、なかなかそうはいかないから、代理のひとつとして功利主義的な正しさがあります。しかし、功利主義はいまひとつ人気を獲得しないので、ときどきカント的な正しさがもたげてくるわけです。

 

正義に準じる!!と言えば、日本ではなんか武張っていますよね。まぁ別に謙信ではなくても、戦国武将だって自国領土における功利主義的な正義ではコスト少なく他国領地を分捕れれば利得が非常に大きいわけですから、誰も止めたり、裁定する者がなければ力で奪います。本来は裁定する者が一番正義を体現しないといけないわけですが、幕府は弱体化するわけです。

 

そういえば、そもそも政治、幕府って何かといえば、利害の調停ですよね。大昔から起こる政府機能としてはこの利害の調停が大きかった。とりわけ土地問題が力づくでなるように世知辛くなってくると、なかなか簡単にことがすみません。

 

正義を機能させるには自分が正しい身じまいしないといけない。わりにこのことをよくわかっていたのが北条家の人ですよね。正しさによって権力を維持しないといけない。なぜなら彼らには十分な正統性がなかったからです。正統にはこれは歴史的妥当性が本来必要ですから、天皇家に比較的近くつながるとか、「名門」でないといけないわけですよね。しかし、彼らは(武士団)は、自らその長、将軍である将軍家を破壊しました。血統だけ「尊い」貴種からお飾りの将軍をもってきますが、単に最初、そこの妻、父、義弟に過ぎなかった血のつながっていない親族です。実朝が亡くなればもうそのなけなしの正統性っぽいものもなくなりますものね。

 

歴史の重みから言えば、正統>正当 ですから、正統には叶わないけど(結局足利に滅ぼされる)、せめて正当性を持ちたかった。この理屈を高時や長崎らは忘れてしまったのでしょうね。

 

それよりも古い正統はもちろん藤原摂関家です。西園寺公望とか近衛文麿とか細川護熙とかですね。むかしは天皇が偉く、藤原家が賢かったので、律令的な正しさを藤原家は独占しようとしましたが、すぐに堕落してしまいます。どうも日本は正義とは相性が悪いようですね。能力主義の叙任を始めようとしてもすぐ縁故主義に戻ってしまいます。しまいに血統固定です。正しく物事を運ぶにはエネルギーが相当いるんですね。

 

だからレベルが落ちて、貴族が単に「偉い人」になってしまうと「正しさ」「正義」を謳う武士が現れて、自分たちの式目とかつくって、正しい裁きを自分たちで行いたいと思うようになるわけですよね。

 

でもやがてそれも単なる偉い人に堕落して・・・の繰り返しです。時に正しく立派そうに見える人が貴族層に復活して現れて人気を呼ぶこともありますよね、なんたって根本的に正統性がありますからね。近代化していない世界では、そうした正統性は大事がられます。個人より「家」ですもんね。だから村でも代々、なんとか家の人が村長や今じゃ県会議員とかになっちゃったりする。

 

いまじゃほとんど貴族と武家の区別はつきませんが、普遍的に権威と武威というのは世界にもあったりして、そのいずれかに正しさがくっついたり、近代的にはただ「正しい」だけでがんばったりするわけですね。

 

ということで、血筋の権威があるか、武張っているか、あるいは近代的に頭のよさ、合理的かつ穏当な在り方で売るかという戦略になります。あるいはこれを贅沢に合わせ技するとかですね。

 

日本の統治の仕組みから考えれば、宏池会がお公家集団と言われたのも尤もなことです。現実に貴族がいなければ、貴族って律令的には行政官ですから、要するに国家を運営する行政部隊ですよね。それは今では官僚のことですから、官僚出身者が多かった宏池会は武張ったことはしないわけですよね。それは貴族的には穢れですもんね。「そんな汚い闘争なんて」とかね。だから機能的には貴族的要素ですが血統がなければ正統化はできないから、近代合理的に正当化するわけですね。穏当で優れた政策を出そうと、官僚出身で頭がいいですからね。

さかのぼれば穏当な政党政治家たちとかになりましょうか。ややリベラル系の。

 

武張った伝統は、もちろん長州陸軍系ですから、山縣有朋田中義一系ということですよね。どうして商工省に抜擢されただけでタカ派的立ち位置を形成したのか、政治伝記などを読まないので岸のことはわかりませんが、とても陸軍と仲良かったみたいですね。もちろん軍需調達とかしていたわけですけど。タカ派的リスペクトを得るには武張る戦略が有効で、中曽根さんとかが軍服で登場するとかそうした意識ですよね。いつの間にか自民タカ派非主流派が、21世紀に主流派に変貌していくわけですが、物腰や目つきだけですごめる小泉さんはすごいとして、そうした岸以来の血統、正統性はあるのに、何だか可哀想に安倍さんはたぶん遺伝子的(彼個人的な)にはやさしい感じがしてしまうのに、家系的にがんばって武張らないといけない。苦しいでしょうね。若い時からがんばって身に着けたペルソナなんでしょうけど、どうしても子犬が吠えているくらいにしか見えない。

 

鳩山息子は立ち位置間違えているようにしか見えないが先祖帰りしているのかどうか。本来、かの鳩山兄弟はリベラル寄りで渡ってきたのに。ブランド戦略を壊していますよね。

 

だから日本では、

 <岸・安倍的クラスタ>が長州陸軍的権威を体現し(イメージだけ)、

 <鳩山・細川的クラスタ>が本来、ややリベラル、

   それに宏池会伝統を加えれば、岸田ということに。

   (本来旧田中派みたいのも来るんでしょうけど、額賀さんが

   残念だったのと小渕優子謹慎で見る影もなし。そして旧三木派

   は高村さん引退。思えば昔の竹下7奉行は早く亡くなる方が多かったですね)

 

これに近代理論的理屈(ある意味現代の常識)の正しさだけで

闘わないといけないのが、立憲民主党ということになりますよね。もっとも「正しい」というコトバは共産党の十八番でもあるわけですが。

 

<社会民主主義クラスタ 欧的には大きな政府派・福祉重視>

ということになりましょうか。

 

枝野さんの真摯な在り方が人気を呼んでいるようで何よりです。でも本来理論が大事で、枝野さんは分かりやすく理路整然とあるべきことを語るようでいいのですが、理路に説得されているのか、人物なのか。ついつい土人は属人思考してしまいますから、これが単に枝野人気だけに終わると哀しいものがあります。

 一周まわって復活したこの常識的な正しさですが、使いふるされると、すぐに「正当」(実はうそっぽい)に成り下がるので油断禁物です。「いくらそうは言ってもそうはならないもんだよ~」みたいのが、かつてリベラル系の発言をバカにしていた人たちの言うことでしたね。ただし、本来のリベラルは再配分と多様性ですから、実は世界標準的に見れば本来的でない軍備・外交的にあまり凝り固まると時代の動きに対応できない欠点もあります(重武装左翼なんていくらでもある)。そうした不安を持つ層にしたら単純な護憲は説得効果が働かないでしょうね。さりとて安倍さんの外交が今うまいわけでもないですから一体どうしたもんか。とにかく交替してもらうのが一番いいのでしょうが。

 

いずれにしろ、正しいことを言う人をそのまま素直に立派な人だと思えるようにならないと近代社会は来ないですよね。

 

さいごP.S.みたいな・・・

 術語としては正統=legitimacy 正当化=justification

なので、対象物があり、それを維持したい場合、動詞でjustify となりやすく、そうすることがjustification。「正当だっ」って思うみたいな表現で使う時に対象の性質としてlegitimacyなんでしょうけど、SJ理論の中では盛んに動詞化して、legitimizeなんてのが出てきて、実質、legitimize=justifyで区別していないようです。アメリカは大して伝統ないですから。

参考文献:Jost & Major eds. 2001 The psychology of legitimacy. Cambridge.