zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

ゼミ発表

2回目のゼミ発表が終わった。

 

まぁなんだ、どうということもない無難なというかやや気が抜けた感じ、いや発表は議論にはなったけど。

性差別のところを選び、日本語でやれば理論的にかなり強いところであるはずなのだが、やはり表現は難しいよね。受け取りのレベルもあるし。日本語でもこのあたりは通じない失敗経験が何度かある。

なぜだろう。

 

たぶん、聞き手はそれぞれ相手がどんなことを言いそうか予測、構えて解釈するんですよね。これまでの人生のその誤解やディスコミュニケーションを振り返ると、ジェンダー問題について「保守的」と見られやすいようだ。なぜかわからん。早くから結婚していて、結局妻が専業主婦になったからだろうか。まぁそうなんだろう。こっちが昔市民運動で男女同権方面(当時はまだそういう言い方した)にも気合入れてやっていたとかそういう過去をみなさん知らないし。昔からの性差別解消本をかなり読んでいるとか知らないだろうし。

 

まぁ進んだ女性は特に年上のおじさんは保守的に決まっているとか、ましてや自分の妻を「専業主婦にしている」とんでもないやつとかそういう感じなんだろうか。

 

まぁ確かに結婚したとき、付き合っているときの理想は、同じ様な目標(臨床心理学)を共にいだきつつ、共に働き、同志のような・・・とそういうフラットな在り方が理想だったのだが、これは誰に言っても当事者にしかわからないことだが、妻の「からだが弱い」という事実を甘く見ていた。

 

今日、発表したのは主に慈愛的偏見の悪効果だ。慈愛的偏見にあたる記述、項目を読むだけで、そのあと、女性が自身の身体、みかけにコンシャスになったり、容貌管理行動が増加する。慈愛的偏見の罠にはまり現状を維持する方向の行動を再生産しちゃうってやつだな。それと、実際に性差別問題について異を唱えるプロテスト行動に関わることが抑制されるとか。もちろんこれも現状維持の方向に振れるということだ。敵対的差別の言説に触れる方が抗議などの集合的行為が増加、活性化する。

 

女性は虚弱という文章もあったが、まさに妻の虚弱さは、それをかばうこちらの行動を慈愛的行為に変換してしまい、温情的な性差別行動を成立させてしまう。ベタに言って重い荷物を持つとか、車で送り迎えするとか。でも、とがった活動系の人ってしばしば頭悪いから個人差が分からないんだよね。今回も個人差は議論のなかですごく強調した。わかってもらえたかどうか分からないが。男女差の問題ではなく、女にも男にもとてもつもない個人差があるから、性で分けてものを見るのではなく、個人を理解するだけでいいのだと、スタンスの取り方を変えるという話だ。現代では常識だと思うのだが。

 

だから、女性全員を強くするとか、男性の乱暴さを一律的に下げるとか、「一斉モード」で事に当たるのではなく、「人の違い」を性別の違いに帰属しなければいいのだ、社会的場面で。もちろんホルモン的に検定かければ遺伝的に性差はあって有意差は出るが、それは実際の今目の前の行動の何パーセントを規定しているのかということだよね。多く見積もっても30%くらいならば、70%は状況要因で動かせる。だから性の観点で理解するのではなく、状況を変化させ、整えること(男性の育児休暇とか典型)が大事。男性の育児にあてられている時間が短いのは、日本の男性の労働時間が長すぎるという労働問題に帰着する点もある。時間のゆとりがもっとできたら、使い方も変化させやすい。このあたりも本当に日本の労働運動の愚策、失敗作のつけだ。

 

車椅子だったら階段をあがるのを援助するかもしれない。その障がいのある人が男でも女でも。妻はたまたま女でからだが弱い。それだけだ。虚弱なら何かしら面倒みないといけない。当然で、そうしかない。20歳まで生きられないと言われていたやつが50まで生きているのだから大したもんだ。はっきりいって相手がわたしでなければ、30歳くらいで死んでいるのではないか。時間にかなり自由がきくとかでないとあらゆる場面でタクシー運転手みたいなことはできないし、本人はただ個性的に「我が強い」からタクシーに乗るのがきらいで困ったもんだとか。どうしようもない。今回この10月だって、もう死にそうな田舎の叔母が最後の力ふりしぼって上京してくるからって、田舎から東京に移した(複雑な背景がある)実母の墓参りに、ふらふらに死にそうになりながら(たぶん)家→羽田→小平→家と運転しているのだ。本当は助けに行こうと思っていたが叶わなかった。1年くらい寿命縮んだだろうか。

 

まぁ横道の話が長くなったが、こういう人の個性(女性だからというのと関係ない。喘息などは男でも女でもなる)の問題だが、はたからみたらとても「伝統的な」家庭運営している古いパパに見えるんだろう。

で、話戻るがだから本当なら場の雰囲気から言ったら性差別後進国ニッポンから50代のおっさんが来ているわけだから、役割としたら古いいこと言って若いセクシズム研究者にいじられたり、からかわれたり、非難されたりすれば分かりやすくて、雰囲気がめでたしめでたし、おもしろかったとなるよね。

 

でもいきなり、ラディカルフェミニズムっぽい話から始めて、それでもうまくいかない点は何か、それで、いかに進化的圧力をわれわれは乗り越えるかとか正面切ってやり始めると、なんか期待に沿わない感じで、イスラエルのお兄ちゃんが保守派の役割を代わりにとってくれましたわ。

でも、こっちから言おうと思っていたトランスの話は、これまた日本から来ている院生の女性が持ち出して話し始めたから、なんだか議論も迷走して・・・と。Johnは「それはそうだが、それはおいといて」という。いいのかな。結局男性だから女性だからの視点をきれいに徹底的に無効化できるのは、トランスジェンダーインターセクシャルだと思うのだが。そういった情報にもっと陽を当てるというか、日常的に「ふつー化」(誰も知っている。よくあるよねみたいな状態)していくことこそ、「男だから・・」とかのセリフを抹消する方略でもある。発表者のひとりは、このマンフッド研究者だ。

 こちらの英語表現が超下手だから、やりとりやその場の議論になると、ますます英語自体がめためたになって日本語で言っても分かりにくいことやふとしたら、真逆に誤解して取られることも多くある微妙でややこしい話をそこまで英語でする語学力が自分にないことによく気づいた。そういえばこうした話題はそもそも英語でしゃべったことが一度もない。自分の研究では扱っていないからポスターの前でそんな話を一度もしないからだ。そりゃあ、英語も出んよね。

 

まあ日本でも別にジェンダーの話題ふったら面白うそうなんて、全く思われないたちだから、そういうことはしゃべらないし、逆にとられて誤解されるのはもういやなので、若い時のようにケンカふっかけたりもしないし。こういう信念系のところは論者も妙に信念もっていたりして、信念バイアスで人の言うことを虚心坦懐に聞けない柔軟性の欠けるところがあるよね。これがひとつフェミニズム運動の陥ったそっぽ向かれる現象みたいなことで、昔はそのそっぽ向かれる現象が戦略的に損ばかりなので、どうしたらいいかケンカを吹っ掛けると、180度異なる「保守派の難癖」みたいに誤解されて、大体この手のひとは自分よりこの人の方が考えが先を行っていることをすごく認めたくない人々で自分が一番前を行っていると信じたい向きで、それが強情な「信念」になっちゃっているからたちが悪い。だけどあまり運動内部でバトルをやると、つまらない内ゲバみたいになって、これまた外部の見物者からあいつら性懲りもなくまたやっているよ(笑)みたいに嘲笑ネタにされるので、本当にスタンスが難しいのだ。

 

だから、性差別ネタは社会学会ならともかく、中途半端な連中くらいしかいない社会心理学会では一切しゃべらないことにしている。

 

とにかく・・・・つかれた。でも、発表済んだ。もう帰っていい。

とか、違うだろう。そんなことよりも自分の研究しないと。少なくとも5つやることを紙に書いて壁に張った。だんだん残り時間が少なくなっているので、やっていかなくちゃならない。少し日本語文献も読まなくちゃのものがある。あしたアマゾンから届く。