zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

ことば

やはり大学授業料無償化は実際無償化でなかったという話ですが・・。

 

西欧では、現実の現象と概念を対応させているので、この現象にはこのことばを使うべしというのがある。これは学問分野では助かることで、もちろん定義したりもするが、いちいち論文のなかで定義をしないふだんから使われていることばもそれが「どういう意味」であるかの合意はおよそできている。だからはっきりしているのだ。というか、はっきりしないのだったら何のために言語を用いるのだ。

 

こっちの人とあっちの人の頭のなかにそれぞれアイデア、考えがある。どう違っているのか、あるいはそれは同じことなのかすり合わせ、検証するために言語を媒介にして交換する。ここで言語の指し示す意味があいまいで、こっちがペンのことを言っているのに、同じことばで向こうが消しゴムだと思っていたら話はこんがらがるだろう。だからことばだ。

 

はじめにことばありき。

 

ことばで世界はつくられていく。人権、共有、理解、正当、借金なんでもそうだ。

 

だから、ちまたの人が日常の会話でいくらかテキトーな使い方をしたとしても、西欧世界では少なくても政府の公的発表とかましてや政策の説明などのおおやけのものではことばをちゃんと使う。そして仮にちゃんと使わなかったら(トランプ大統領のように)、即座にマスコミなどが取り上げて難詰する。記者会見のなかで、それはこういうことば、概念を使った方が適切ではないかと訂正されるだろう。

 

だから「無償化」というひどい言い逃れをやるのは、日本人はよくやることと思っているかもしれないが、こういうことば遊びは西欧世界からしたらかなり異常で、それはコミュニケーション拒否と受け取られてもおかしくはない。異なる概念のものにうまい言い方をかぶせてごまかしてやろうというのは、あらゆる場面で見受けられるし、過大広告は取り締まる法律もある。しかし、次から次にそうしたにせのことばをかぶせるのは、ありていに言って「ずるい」ことであり、これがこの日記で時々書いているように、東アジアの国々が「ずるいやつら」というステレオタイプが形成され、進展してくる基盤となるのだ。「やつらの言っていることは信用ならない」ということ。

 

なにしろ、アメリカが最初に開国を迫って日本にやってきたとき、対応に臨んだ、江戸幕府の役人は「役職を騙った」。上司が自分の役職名を部下に騙らせたのだ。にせものの役職。なぜなら、なんかあったら上司は「自分が責任をとりたくないから」

 

そう、言葉を騙るのは、「極力責任をとりたくない」「無責任」ということの大きな表れなのだ。

 

しかし、政治家という職業は、実は「責任をとる」商売なのだ。専門家のような専門性もない。しかし、専門家や部下の説明をしっかり受けてその要所を理解し、最終的に判断を下すのが政治家の役目。あえて責任をひっかぶるということで給与が発生しているのだ。

 

だから「責任を回避しよう」という姿勢しかない政治家は月給どろぼうだ。仕事をしていないに等しい。というか、うそをまき散らすなら、本来の健全な業務を「妨害している」「混乱に陥らせている」といってもいい。むしろそいつこそが国家反逆罪みたいなもんだ。

 

うそは組織を滅ぼす。