zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

2週間

関西での2週間ほどを終えて帰京した。

この間、いろいろあったが、専攻13名中12名の教員には会えて、十分話ができたわけではないが(というかあまり話したくないとおっしゃる先方もいらっしゃるし)、まずは謝った。それで一昨日、木曜日には学長とも面談し、なんとか事は推移し、周囲のご理解というか寛大なご厚意に基づき、手続きも進んでいる。

 

なんのかんのいって、再び新たな環境へ移るのはたいへんではある。前のところも前のとおりではない。それは新たな適応を強いられるやはり新たな環境だ。ずっといて徐々に変化していると気づきにくいかもしれないが、こうしてみれば日本の大学政策、大学をめぐる環境はひどく変動しているもので、いろいろな新たな「取り組み」が求められているし、手間や仕事が増えていることははっきり分かる。全くこんなに教員たちを疲弊させて何をする、何をしたいつもりなのか全く謎ではあるが、官界は財界の無関係だった人が大学で何かしらの役職に入ってきて場合によっては高給を食むということは進んできている。まあ簡単にいって搾取されているわけで、大学という場で宝探し、ちょっとした砂金を見つけては、そのために大々的に地面を掘らせるというのをやらされているようなもので、掘る方にはそれに見合った収入はなく、残業でさせられているといったところか。

 

端的にいって資本主義的、利益獲得至上主義という世界を大学という世界に持ち込むとこんなことが起こるんだとういことですよね。

 

われわれ世代はそろそろ終わりが近いが、これからこの世界に住まい続けることになる若い人には本当にたいへんかと思う。研究的な追い風は全く吹かないから、面倒な仕事だけが増えていき、本業を果たすことがたいへんになる。

 

そういった逆境で考えると、わたしごときが何か文句言うというのはきっと違和感があって専門的にも大学規模としても比較的恵まれた私立大学をめぐってきて、研究にも理解がある法人、事務職員に囲まれて研究を進められる環境にあることは感謝しなくてはならない。その辺特段、現任校と前任校に大きな違いがあるわけではない。むしろかなり規模的にも社会学部としても異なる大学にしては類似点の方が多いだろう。

 

ただ、申し訳ないが精神的にはいよいよほっとしている。何がストレスというわけでもないような気がしていたが、「戻る」ことの方がだんだん嬉しい。そんなバラ色でもないことは分かっているが、それでもほっとしている。

 

大学にしても実家にしても5,6年果たしてきた「義務」的なことから立ち去る後ろめたさもあるが、こうした巡り合わせは偶然要素も含めて起こり得ることだし、いろいろ複雑な感情、気持ちはある。

 

震災の記念館にはグルダイの機会に行ったことがあったが、1月17日あれから初めて東遊園地に行った。なんとなく行かなくてはと思う気持ちがあったのだ。

 

阪神電車に乗って北に六甲山の連峰を見ながら、三宮に向かう。ふと、「神戸にある大学で毎日この電車にのって西向きに通っていたらどうだったろう・・」と思った。もしかしたら東京に戻ろうと思わなかったかもしれないという考えも頭をよぎった。三宮側に来るのは3回目に過ぎない、この6年で。ずぼらだから出勤方向にしか行かず、どこか寄るとしても通勤途上になってしまいがちだ。この山並みを見ながら歩きはしない。

 

西宮では西にも山が見えることに気づいた。もちろん尼崎で山は見えない。だから、こうして自分にとって当たり前の北を見れば山というのは、芦屋以西のことなのだと改めて気づく。生きる環境から被る影響とはどういうものだろう。でも西に通い、北に山を見て、東遊園地でモニュメントや石版を見ながら、いつまでもここに留まっていたら、すぐさま離婚ということもあるかもしれないし、でもそれはそれでよいことのような気もしてしまうから、こうして周囲に多くの迷惑をかけながら、東京に戻ることが自分にとって本当によいのかどうかはあまり自信が持てない。よくないかもしれないけれども、そう決めた、選択したということだ。

 

シラバスは書き終えた。ちょっと一週間は休もうというか、院生指導に力をシフトしよう。結局最大の問題はやはり院生なのだとあらためて思った。2人しかいないけど、ひとりひとり、唯一無二の人生を生きているのだ。20代は二度と来ない。その日々をK大にしろ、どこにしろ、その場で経験して日々を費やしていくのだ。そしてその記憶を永遠に抱えて研究人生を歩んでいくのかもしれない。きっと話すべきなのだろう。遠くからでも今は何でもできると思っていたが、実際、互いに2回ずつ会って、4時間も5時間もしゃべっていたら、「ああ、教員というのは学生・院生と話をしないといけないのだ」となんか痛切に思った。雑談でもいいから、いや雑談にときおり顔を出す心理学的な見方、心理学的な生き方、心理学的な対峙の仕方、結局そんなことの方が具体的な専門知や方法論(それらは書物、論文に書いてある)よりもずっとずっとずっとずっと何かしら大切で、そうした雑談や会話からひとりの人間の芯にとまで言わないでもそこに近い何かが形成されたり、宿されたりするのだ。つぼみの会で鵜養さんから、学科で飯長さんから自分が影響を受けたように・・それは一生自分について回る、重要な自分の構成要素なのだ。正直長時間はこちらも年で辛いが、それは少しずつでも日を重ねて、重ねていかなければならないのだろう。そしてむしろ一番思うとおり、想像のとおりに運んでいないかもしれないことがらは院生をめぐる教育状況かもしれない。(物理的に次年度学部の授業を担当しなくなってしまったという予想外の展開のためもあろう)

 純粋に自腹で自発的に「授業」でもないのに、院生のために関西に来なければならない。1年目はいいにしろ、2年目からはどうなるのだろうか?全く分からない。

 

思えば自分自身が修士途中での佐治先生の退官によってふらふら~っとふらついてしまって、最終的に社会心理に転じる結末を迎えることになったのだった。