zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

文系の総合知

別に文理分けたり、だから文系に限る必要は全くないのだが、たこつぼ専門が指摘されてもう日は長く、より総合的な取り組みも求められている部分があるだろう。

 

理系の方から省庁への要望(具体的には意見聴取していたときの河野大臣へのリプライ)に、実績に応じて「研究計画」でなくて、「人」に予算つけろ、そうしたら安定的に長期予算の確保でイノベーション可能になるぞというのがあったりした。計画なんて特に発明創造的な理系研究では「予定」「予測」どおりいかず、むしろ失敗から発見があり、軌道修正するなかで思いもしなかった展開によって発見がなると。つまり計画であらかじめかけるなんてことはわりに陳腐な発想かもしれず、本当の新発見はそれを越えたところにあり、それを促すシステムなら工夫が必要だと。

 

これは難しい問題で人に予算が固定されると新規参入者や若い人はどうなるのか、結局優秀な先生のもとで、共著などで実績を摘んできた人が有利になるのかとか悩ましい点はある。しかし、いずれにしても今のように若い研究者が身分不安定で、だから大学院に人が来ないとか構造的な問題になっていて困るわけだ。

 

言ってみれば人生見通しができて、頭のよい人は皆研究者にならずに企業等に就職し、それより頭の悪い人たちが研究者になっていっても当然、尻つぼみになっていく(まあそのあと、ぐんぐん伸びる要素がなくはないことはもちろん否定しない)。

 

文系において「頭の悪い」研究者(わたしの勝手な定義)は、本当に細かい自分の専門分野のことしか知らないで、自分の研究の位置づけさえも分からない人だ。もちろんこの高度に専門化して科学が発達した世のなか、すべての知に触れることは不可能だし、たいてい専門家は専門以外ではあほだみたいなことはここでも書いたし、人も言っている。

 

しかし、重要なのはものには程度があるってことで、この微妙な「程度測定」こそが心理の十八番ではないか。膨大な知の海の中で、今は「無理、不可能」だから自分の専門に深く邁進して、他の知を顧みられないのは「仕方ない」と言い訳して知ろうとしない。でも頭の動きが本来活発で好奇心があれば、自分の専門からの関係で芋づる式でいろいろなことに興味を持ったりしないだろうか。

 

わたしの先輩で年ごとにテーマを決めて全く関係ない分野を勉強するって人がいた。まず入門書と概論書を3通りずつくらい見れば、およそその領域が扱っていることが見えてくる。そのうち、特に興味のあることがあったらその分野に特化したより専門的な本を読む、すると問題の扱い方や方法論の詳細も見えてきてその学問のスタンスもより具体的にわかるってわけだ。

 

そこまでいかなくても、私見では、心理関係なら分野にもよるが、医学、脳神経の方に行く方は理系的でまぁ本当は哲学やってほしいけど、考慮から捨て置くと、たいていのものは、哲学、社会心理ではある種の社会学や社会問題など知っていた方がいいものと思っている。

 

本当に専門のことしか知らないと、本の章を書いてもらってもつまらないし、ちょっと外周よりのことで間違ったこと書いていたり、最終的な目標は何?みたいなことが迷走していたりする気がする。

 

特に初心者は明瞭だが、この間も院生と話していると、それを研究して何が知的貢献になると思うのか詰め寄ってもその辺の思考が甘いのだ。学会誌の論文査読していてもうまく問題部分が書けていなくて、これわかってどう意味があるのか(むしろ教育的には事態を悪化させることにしかならない気がするようなものとか)疑問を感じるのに接することもある。

 

さて、院生に莫大な罪はないかもしれなくて、やはりそういったところが指導教員の影響ではないか。指導や雑談のなかでもっと広い視野の考え方に触れさせ、考えさせるとか。

 

悪いけど、某大学ではあまり指導教員にその傾向があまりないように見えるからか、院生たちも総じて知識が薄い気がする。別に偏差値至上主義で七帝じゃないとだめとか言わないが、本当は総じて二流私立大のものはアメリカで言う「教育教員」にはかろうじてなっても研究教員などすべきでないと思っている。3流私立大学に就職して研究者になどならない学部学生などを実験実習などで教えているのは要するに教育教員だからまぁ大目に見れるだろう。だけど、そんな人から一流の研究者が育つとすれば、全く本人の資質であって、「指導」「影響」という点ではどうだかなぁということだ。なぜこういうかというと、能力のない邪魔な低脳教員が本当に総合知でも優秀な(あるいは優秀になりかけている卵)の就職を物理的に妨害して、雇用不安定にして、研究の場への参入を妨げ、また難しいものにして、初めから近寄らないように企業への就職とかそういった方向に才能を浪費してしまう悲劇が深刻に進展しているように思うからだ。優秀な研究者になれそうなのに、残念ながら研究の世界の土俵に入ってきてくれないとか。

 

だから各大学が資本主義的原理で、お客さんが多そうなマーケット、心理や人間を大学学部学科に乱立して増やし、またことごとくそこに大学院をつくって文科省もまたそれをことごとく安易に認めてしまう。確かに教育教員的な就職マーケットは拡大するし、そこがバランスとれればよいのだろうが、現状ではやはり求職者が溢れている。

 

話戻ると、だから某大学の院生(元院生、PD,とかとか)に本の章の分担執筆とかあまり頼まない。少数の知識ありそうな人しか認めない。

 

学会ってのは本当に互助組織でそこあくまで甘くすれば、自分の分野でしか通らない、しょうもない学問知でも許容されて、査読もピアレビューだし、多くの教員採用も内部の心理の人が関わって採用したりするから、飯食える生息場所だけに堕す危険がある。学会大会とかで仲良くし、人柄は申し分なく、だからと言ってすべてを許していると、学問レベルが低下するだけである。裾野が広がると言えば聞こえがいいが、実質、審査が働いていなければ大会発表などくずが溢れてきてしまう。また馬鹿は自己客観視ができないから、発表していればこんな研究でいいんだと自己納得してしまうし、ますますくずぶりが定着してしまう。

 

少なくとも指導するなら教員採用時に、なんかⅠ次試験した方がいいんじゃないか。線形代数程度の試験と、統計的方法、そして哲学分野から問題出して解いてもらう。

 

そういうことが定着すればいずれ博士号審査要件にそういうものも加味されて、今もすでにかなり増えているが、大学院の博士前期課程や後期課程で、より高度な統計的方法論の講義や数学の授業の単位をとることを必修要件とし、さらに哲学でも単位化すれば博士号取得時にある程度のその能力の担保ができるようになり、いちいちあとから試験する必要もなくなるかもしれない。フランスみたいに大学入学者全員がみたいにはいかないだろうけど(改革が検討されているらしいが、ざんねんながら)、ある程度哲学的素養をもつとかね。

 

あたまをあれこれ回す余裕がないと、ルーチン的な自分の分野の研究方法だけを修得し、狭い範囲のテーマで同じ尺度をいつも使って(それ自体安定的知見で悪くないが、テーマ変えないってことで)、とりあえず何かの相関出たってことだけ量産している。業績が増えてもそんなのくずだ。

 

非常勤先が次年度から大学院の授業、社会心理学特論でなくて、教育心理学特論に代わった。で、適当に教育心理学と名の付く教科書っぽい本を2冊買ったが唖然とした。内容が超ふるい。遺伝の環境の章が輻輳説の説明とかでとまっていて行動遺伝学の知見など全く触れられていないとか、パーソナリティ発達が結構精神分析的発達理論にページがとられていたりとか、せいぜいビッグファイルだけ半ページほど書いてあってあと全くないとか、これはあれですかね、教員養成上、なんか必須となっている「教育心理学」とかの科目でそれが全く改訂されないで、教師が知るべき教育心理学と知識がストップさせられているのでしょうかね。教員採用試験でこれしか出ないとなれば、センター試験と同じで心理領域と言えば、防衛機制とか・・・みたいに決められていて試験対策考えると踏み出せないとかですかね?? 買うテキストもっと目次見て吟味すればよかったが、他の領域の本の方に主眼があって、ついでにこれ2冊買ったので中身も見ないでしかも紀伊國屋梅田店にそういっぱいは置いていなかったので代表っぽく見えるのを取ったのだよね。標題で代表っぽくなさそうなのが直観的には気になったが、本当しまった。つまらないものを買ってしまった。臨床大学院で教師になるわけではないから、そうここにこだわって教える必要ないのでもっと先の方にがんがん行くつもりだが、20年前くらいと全く変わっていない様相に本当にびっくりした。一瞬教育心理学滅びろと思ったくらいだ、それは早計だが。これは別に著者が「バカ」だからこうなっているわけではないのだろうが、じゃぁ教育課程こさえている者がバカなのか、知識を更新するという意欲や好奇心や科学的マインドが全くないのか?

 

そういう意味でも文科省の官僚、各省庁の官僚、メディア含めてバカは一掃してほしい。日本社会も、官僚、メディア、ビジネスでの役員など役職者、政治家、皆、「博士号」が必須という規定にしてしまえば、大学も大学院も日本社会もそうとう変わってくると思う(無策だと簡単に博士論文かける、ずだぼろの大学院が増えるだろうけど、そこをがんばって何年留年させてもいいから「質保証」をがんばれば)。

 

研究者だけでなくて、社会のなかで頭つかって賢い仕事してほしい人みんながもっと知識更新して、せめて今よりも論理的に考えられるようになるだけで少しずつ世の中よくなるかもと思うのは楽観的でしょうか? 特にむしろ研究者にならずに博士論文書く人は広い視野やいくらかでもの総合知を有する方向に進めばよいと思うのだがなぁ。ちょっと理知至上主義すぎるでしょうか?もちろん現場で生きるのは勝手に現場の智恵や非認知特性使うのは勝手にやればいいってことでそこ人間に要らないとは全く言ってないですよ、ただ大学の場で非認知特性鍛える必要は別に思わないだけです。

 

ちなみに逃げるようで恐縮ですが、私自身はもう年で認知機能衰えてきていますから多くは期待しないでください。

 

昨日、理事会通りました。幸いです。