zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

塾文化

自分の体験でものを言うととっくに古びているかもしれない。

 

だからそういう怖れも抱きつつ、塾に集まることを考えてみる。

近畿、首都圏以外の経験を持たないので、そうした都市部しか分からない。

 

そこで言えることは、一般に小学校は多種多様の集まり→塾に行くことで同類を発見。

 

こういうことだ。だからもちろん両方あっていい。

 

成績がよいものもそうでないものも、学校のクラスではいろいろである。また地域柄特色のある学区域もあるかもしれない。塾ではそれと異なる新たな人間関係が発生する。場合によっては学校のクラス以上に仲良くなり、わかり合える友だちを見つけることもある。少なくともその「出発点」にもなり得る。

 なぜなら、同じ塾に通っていて、さらに同じ中学に進学すると同志感覚がさらに増えるからだ。

 

それほどでなくても、「弱いつながり」を構成する利点から言えば、多種の弱いつながりは有効で、学校だけだと場合によってはイジメとか行き詰まることとか、担任教師と合わないとかあるが、塾では異なる経験ができて、「自分はクラス以外での生き方を持ち得るのだ」という気持ちを抱くことが可能だ。まじめにこれは自殺防止にもなる。

 

クラスで評価されない子が塾でほめられたり(いわゆる「下のクラス」でもちょっとしたことで塾教師は成果をほめることがある。人間的に必要なだけでなくて、経営的にも求められているからだ。塾を好きになってもらわないと、子どもにやめられると経営が困る。学校と違って塾はいつでもわりに簡単に辞められる)、自分と趣味やレベルが合う子を見つけて友だちになったり。

 

おとなでも実世界で趣味の合う人間をなかなか見つけられないけれど、ネットならということはいくらでもあるだろう。小学生ではネットを自由にという環境にない子もいるから、塾というオルタナティブ・ワールドで探索の機会が増えるのだ。

 

また、いわゆる「できる子」にとっても、小学校の勉強は簡単すぎて、またでき過ぎることが学校のクラスでは「浮く」ことにつながるのが、同じくらいのレベルの子が集まる塾に行けば同志が見つかる。趣味や関心も頭の回りやすい子的な関心の向け方やその論評、スタンスをわかり合えるというか「コミュニケーション可能」ということもあり、とっても嬉しいし、楽しいのだ。

 

塾の休み時間や行き帰り、たぶんしばしば学校のクラス内よりもいきいきと楽しそうにしているやからはいると思う。もちろん常にその逆もあるから、がんばって上のクラスについて行こうと奮闘しながらうまくいかないで鬱屈を抱く子どももいるだろうし、親のプレッシャーの与え方次第も、「塾」というのに子どもが関わるスタンスに影響を与えるだろう。だからプレッシャーは極力減らした方がいい。「とりあえず、その場その場でまじめにきちんとやる」ことの積み重ねを注意していくのが無難で、実測値が揺らいでいく模試の成績にあまり一喜一憂して、次のテストでは「絶対、○○以上」とか「αにいけ」とか過剰にプレッシャーにするとキツイだろう。「・・・だったらいいね」くらいに目標を据えるというか、本人の希望も見極めながら「目標を共有する」のがいいだろう。

 

いずれにしろ、学校以外の校友のチャンスはあった方がいいのだが、無料ではない限り、ここで収入レベル、経済階層によるチャンスの多寡があることも残念ながら事実だ。単にさらなる学習の機会を平等に確保するなら、塾無償化的に公立小学校に7限、8限を設けて学校の先生の残業ではなく、自治体からのバイト料で塾講師的な者が教えればいいのだが、オルタナティブな校友の場にならないばかりか、できることが限られる。

それにいたちごっこでどんなに公的な場で教育時間を拡大しても、「もっとすごい特別の教育」を謳う民間業者は必ず出てくるし、教育ってそれだけ多様に工夫できるのが事実であるから、「全部を全員に包み込める」はあり得ない。差を減じる努力はあり得ることだけ指摘しておくが。それに塾教師にしろ、ふだんの学校での教育にしろ、もっと個性に合うように工夫することを教師の実力だとすれば、用意されたカリキュラムも教師の質も全くそれを保証できる状態ではない。給与のよい会社の会社員なみの給与を教員に払わないと、それだけの工夫ができる質の教師は養成が難しいと思う。結局、その社会が教員的な役割の者をどう収入面でも遇するかは、その国での教育レベルに影響し、結果将来の国民のレベル(政府や政治選択にも影響する)にも影響し、日本のように教師の学歴が低ければ結局国民の学歴も低くなり、官僚や政治トップが博士号さえもっていないという低学歴国家になる。そういうことだ。

 

また上を育てるだけでなく、柔軟な人間観を持ち、多様な子どもに充実感や達成感をそれぞれ抱かせるのは相当な技が必要である。こうした教職プログラムは現在あまりないので、教師は無手勝流で現場で結局「自分の趣味嗜好に合う」子どもをえこひいきするしか接し方がよく分かっていない教師達を量産するのだ。これは本当に子どもの全般的不幸を体系的に増幅する仕組みがそもそも組み込まれているといっても過言ではない。教師の心の柔軟性を高めるのは教師育成上、最も重要で子どもの命に関わる課題だと思っている。