zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

【恐怖は】なぜ排除?【罪意識の裏返し】

ちょっとした喧嘩のはずなのに、集団でよってたかって相手を殺してしまう場合がある。事件が起こるとはたからみて「残酷」「ひどい」と簡単に片付けるが、本当に加害者がなぜするか考える人は少ないように思う。

 

喧嘩や争いでは、そもそも争いがあるので、仲が悪く(当たり前)、何らかの対立点がある。暴力に訴えられるとやられた方は悔しいし、恨む。日頃からの恨みもある。恨むということはいつかチャンスがあればやり返すかもということ。

 

だから・・・・中途半端にやって放っておくと、いつか相手が元気を取り戻したときにふいに復讐されるかもしれない。怖いですよね。ならば最後まで・・・復讐できないように殺してしまうとか。

 

相手が「団体」だと意味ないですけどね。団体が復讐に来ますからね。

 

だから道端の犯罪でも「気に入らない」ってところから始まった暴力が相手を殺すところまでいってしまうことがある。

 

日本で裁判までして訴えない心理には、面倒ということや近所の人目などの要因の他に、そこまですると「相手に恨まれる」というのがあると思う。

 

関東大震災時の朝鮮人大虐殺も普段の差別に基づく恐怖が一般民衆にあったことも指摘される(何ら免罪にはならない)。要するに普段やっていることがうしろめたいんだよね。それで無害な行動が誤認知されて、「復讐でやって来た!!」みたいに勘違いする。そしてデマが広がっていく。

 

北朝鮮を過剰に怖れる人や戦争を警戒する一部にも(通常北朝鮮から仕掛けてくることは論理的にあり得ないのだが)、戦前占領していたことの潜在的罪悪感があるのではないか。そしてそうした気弱な(悪いことではないが気弱な心情それ自体は)面が反転して、相手を封じる強気態度に出る。ガラの悪いチンピラたちと同じですよね。おやぶんに従っているだけの威勢だけ張ろうとする人々。

 

「自分たちは悪い事をした」→「朝鮮の人たちはさぞ恨んでいるだろう」→「復讐、攻撃されるかもしれない」→「怖いから先につぶそう」「近くにいられると怖いから日本から出て行ってもらおう(在日の人々に対する態度)」

 

理論的には怖い対象を怖いからと突っつき回すと、予言の自己成就を招くだけでいいことないのだけれども、怖いからじっとしていられなくて、「気になって気になって仕方ない」のでしょうね。恨まれていると考えるから共存できない。選挙権与えると政府を転覆される(笑)とまで異常に妄想的に怖れる。まぁ潜在的に「そこまで悪い事を相手にしてきた」って意識があること自体は悪くないかもですね。

 

やはり移民問題も難しいからどこの国でも「うまく扱えていないのではないか」「移民は不幸で、うまく社会適応してもらえてないのではないか」という不安が(実際おうおうにして社会的地位が低いが)恐怖に転換していく場面があるのでしょう。もちろん文化摩擦のより直接的な不快感を感じている人たちもいるでしょうけど。

 

復讐されるにしたって、恨まれて襲われるにしたって、自分から仕掛けるにしたって、「やり過ぎ」が起こる仕組みは冒頭の通りですから、いずれも「やり過ぎないですむ」システムを構築するとよいわけですよね。

 

万一暴力犯罪などが起これば、「必ずつかまるし」(検挙、逮捕率の向上、もちろん100%はあり得ない)、その結果「恨みを買う」のではなく、より健全に更生してくる。これが大事でしょう。つまり、再犯可能性の高い条件では、「ムショから出てきたら復讐される」という逆恨みを怖れてしまうダイナミクスが働いてしまう。日本やアメリカより1/2~1/4くらいの再犯率の社会であって、更生や共生に力を入れる司法制度(矯正制度)をとっているところでは、過剰に恨まれる(アメリカの場合は武器携帯率が高くなっちゃうのでその場ですぐ撃ち返される怖れがあり、なので相手へのダメージを過剰に行う)おそれを感じる必要がないので、うしろめたさを感じるからと言って、こちらから討って出たり、過剰にケンカを売る必要もないだろう。(仮に恨んでいて復讐心がある→実際に犯罪する→即逮捕→心入れ替える(実際は環境を整えるといった方がいいかも))

こういうサイクルが信じられていれば、変な妄想的不安・恐怖を感じなくてもいいのだ。日本で変に外国人国籍の人をいやがる人って不思議なことにこうした警察システムも信用していないのだろうか?(調べてみないと分からない) 確かに国籍違えば高跳びされて面倒なことになるが、ずっと在住している人では逃げるも何もここが住んでいるところだ。

 

小心者の過剰演出、威張り散らしというのは、アドルノ権威主義的パーソナリティ以来、心理研究の俎上にも乗っているが(次回のゼミがこのテーマ)、矯正(言い方はいやだが)システムがまともに機能していない日本司法では、一度犯罪するとすべり台社会なので、そういったシステムも改善の余地が大いにあるんだろうなぁと思う。

 

そしてもこれも普段道を歩いていて、全く知らない他人や外国人に見える人々を「信頼」しつつ(正確に言えば見分けつつ)、生きていく現代の生き方スキルになっていって、こういうのこそが、現代、未来に適応していく本当のグローバル化社会への準備と思うんですけど、どうでしょう。

 

反対意見やヤジを過剰に怖れて嫌いな人は、よほど普段から自分が国民に悪い事しちゃっているという潜在意識があるんですかね? いつ自分は暗殺されてもおかしくないくらいに怯えているのでしょうか?

 

『復讐の心理学』みたいな本を編集してつくりたい。