zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

幼児教育?

あの頃、こうしたブログがあればよかった。いや、なんかあったのだろうか? 一体Mixiをいつから始めたのかもう覚えていない。2000年代初めころはMixi流行っていましたね。

 

ひょんなことから、ちょっと人の教育に関わることにもなったけれど、思いつきを綴っておきます。もう記憶の彼方なので大事なことを思い出せないかも。

 

人のことの件はまぁ勉強はやらないという方向で、それでいいという方向だが、自分ン家では過去小受をやった。いろんな事情もあった。

 

で、心理学界隈、とりわけ発達界隈では「早期教育」という概念の評判、評価はきわめて悪く、ほとんど意味のない虐待扱いと言ってもいい。しかし、もちろん個人差があるから子どもによってはいろんな有効性があるし、とりわけ一般の人(もしかして発達の人)も思い込みだけで、実際やっていることや教材を見たことないという向きもあるかもしれない。よくできていると思う。

 

頭の悪い思い込みでは、教育=学校の勉強という連合が強すぎるので、4,5歳なのに算数やったり、難しいことさせたり、要するに小学校低中学年の先取り教育を連想するのだろう。それしか、自分が学んだことがないから、連想しようがないのだろう。

 

大学入試がいろいろ各校の工夫で進展してきたように、小学校だってまじめに才能ある子供が欲しいし、変に伸び悩みしたり、歪んだ子がほしいわけでは全然ない。あたりまえだ。だからいろんな工夫が歴史上発展してきた、独自の発展を見せてきたのだ。

 

そのひとつが「巧緻性」だ。手先の器用さ。

ものをつくる。 紙工作など。もっと大きなものを自由に組み立てる、あるいは共同作業で組み立てる、作品をつくるというのもある。

これってむしろ文科省や政治家の好きな全人教育というか、ペーパーでない全人的な査定じゃない? みんなで何かやっている姿を見る。これは共同作業部門だけど。

 

巧緻性に戻ると、もちろんこれはひとりでできるので、いわゆる小受向けのお教室とかに行くと、紙を切ったりする。もちろん5,6歳などまだはさみも下手だったりするので、そうした基本的な手先の使い方がうまくなる。まぁ誘導的な自発性みたいな感じだが、「〇〇をつくってみよう!」みたいな感じで子どもが興味に惹かれれば自分なりに喜んで紙を切って貼っていろんなものを作って遊ぶのだ。あまり誘導、操作をかけずに、なんでも作ったらほめまくる感じで、その場を楽しむのが一番の目的だ。もう18年前の子ども成果を威張っても意味のないことだが、ウチの子のはずっとそのお教室の見本みたいなのに飾られていて見栄えがよかったようだ。「コイツモノづくり好きなのか・・・理系か?」とか、そんなに早く文理を決めつける必要はないけど、親ふたりが文系だったから、ちょっと頭においといて気をつけてみないとなと思ったもんだ。わたし自身はあまり「実働部隊的に現場的に何かものをつくる」というのはあまり好きではない作業で、もっぱら「考えること」だけに楽しみに見出す非生産的、妄想的なタイプなので、ある意味、「嬉々として工作に熱中する子」は新鮮だった。

 

数学でも国語でもその要素を分解すると、「数える」→注意を向ける。読む→注意のコントロール、前の文節を記憶して関連づけるなどといった認知過程が働いていることに気づくだろう。

 

「お受験」はそこだ。だから、計算をさせるというより、「注意のコントロール」だ。まさにそこを練習するのがうちの子の場合、必要だったのだ。それにたいへん役立った。

 

注意と記憶では、たとえば教材はこうだ。熊さんがタンバリンをたたている。うさぎがトランペット(子ども的にはラッパ)を吹いている。ねずみが太鼓をたたいている。これを何十秒か見せて、ページをめくってしまってから、「ラッパ吹いていたのは誰?」みたいな。

 

別に生活上害になるほどの作業ではない。こんなことを15時間とかしていたら狂うかもしれないが、起きている時間14,5時間のうち、ほんの20-30分でこういうことをしたりする。お受験嫌いな人はたいてい作業を見るとまるで一日中それに従事しているように錯覚してそんなことより子どもと遊べと言う。遊んでますけど。

 

起きている時間のもっと長い2,3時間(忘れた)大泉中央公園に行ったり、朝霞の公園に行ったりして走り回って遊んでいるし、6歳くらいには他にサッカーボール蹴るとか、大きいボールの投げ合い、パスをしたり(実はこういったことも試験する小学校がある。体育の試験をするのは、体育大学、体育高校以外では、小学校受験だけだろう。そういう意味でも全人的能力wだ。筑波大付属小学校の「熊歩き」は定番で有名だ)、でもうちの子は「統制されたゲーム」にはなかなかなじめなかったので、ただもう自由に走り回るのが大好きで、ほとんどそれを追っかけている(事故のないように、実際アメリカで一度低い階段から転落している)。 もう青い芝生を見ると反射的に走り回るみたいな。子犬のような感じだ。買い物とかで車で走っていても広くて青い芝生を見かけると、妻が子に「走る?」と聞いて、「うん!」と力強く答えたら、とりあえず車を止めて走り回る。そんな日々だ。

 

だから、14時間いろんなことをしているのだが、そのごく一部、ごく一部の時間で、注意の作業や記憶の作業で、注意力を鍛えるのだ。手先の作業では線を引くというのもある。鉛筆で図形をなぞる、あるいは、数を順番に線で結んでいくとなにかの図が立ち現れるとか、定規を使わずフリーハンドで線を引く(ちなみに東大の数学は定規を使わずにグラフを書かせる)。きれいな図が浮かび上がって楽しむためにはきれいに線を引かざるを得ない。やれと言われてやるのではなく、そうした方が楽しい仕組みだからきれいに線を引こうとしてしまうのだ。もちろんしつこく言うがぐちゃぐちゃのお絵描きをする時間はこうしたことをしている時間よりも長い。

 

自分なりにクマを描いたり、馬を描いたりとかのなじんだものの描写もする。その前提はもちろん「動物に出会う、動物園に行く」(2001年の小学校の頃にはレーニア山近辺で野生のシカやリスにたくさん出会った。国内でも北海道とか行って、十勝のウマや放牧している羊などはたくさん見た。動物園は言うまでもない)が前提だ。

 

「知識問題」では、自然に経験していたら身に着く「行事」みたいのがあって、行事を描いた絵を見せられて季節を解答させるってなことがある。鬼に豆をまいている図で(なかなか実際に絵のような鬼に日常出会わないが、紙のお面とか季節には売っているというか豆のおまけについていたりするから、それかぶって節分する)「冬」と答えるみたいな。ひな祭り(女児に有利)、海水浴、雪山でスキーなど、結局こうした小学校お受験の問題群は、受験者のご家庭をして、子どもにいろいろな体験を促す仕組みになっていて、子どもはもちろん概念的、抽象的に記憶するのはまだ不十分だから手っ取り早いのは経験されることだ(ところがうちの場合は経験しても覚えないのでw、言葉でしっかり説明した方がよほど記憶に定着した。そういう子もいる。幼稚園で○○くんはおせち料理を知らなかった。おうちで作ってあげていないんですか?と聞かれて仰天した。あんなに毎年つくっているのに!みたいなw。「それが正月の特別の料理だ」という位置づけの理解が薄かったらしいw。ことばがやや苦手だから「おせちりょうり」ということばもあまり覚えない。自分のなかで「これ、あれ」という感じの記憶なんだろう。)。出題される「図」があのおせち料理を表象しているのだという理解もやや苦手だったので、初めから図と説明をことばで放り込むとすぐ覚えた。

 

うちの子はお教室的にも少し変わっていたようだが、お教室の言う「ふつー」では家族旅行やお出かけで実際体験させると子どもはそれを記憶するそうな。

 

ということで、ある意味効率的にお受験の課題を突破しようとしたら、おせち料理を食べ、初もうでに行き、花見に行き、海水浴に行き、秋祭りを楽しみ、紅葉を味わい、スキーをするという一年を「過ごさなくてはならない」(笑)。お受験すると勝手に充実するぞ。人から言われてやるのなら不愉快だが、まぁ大体というか少なくともウチはお出かけが好きだったので(妻がからだが弱いから全部温度コントロールした車でのお出かけだが、芝生で走り回っている間は妻は車内で待っているか、ひそかになんかの草を摘んでいる、土手ならつくしをとって後で煮るw)、それはそれはいろんなことをした。本当に自由な時間があった幼少期は楽しかった。たいへんだったけど、あんな楽しかった時代はないくらい。それは小学校中学年くらいまで続いたが、小学校になると夏休みとか特定の時期でないとまとめて遊べない。秋の3連休とか使うときもあったが。

 

いつもわたしが運転して、疲れていてブーブー言うこともあったので、ときにはトラピックスのバス旅行なんてして、一泊で穂高志賀高原とか、伊豆半島でいちご摘みとか、いろいろ忘れたが、これもかなりやった。トラピックスのバスは安くてひとり5千円、8千円とかでできちゃうから、入館料ありみたいな企画は食事代こめれば損はない。

 

まじめに受験が近づくと、ただ無茶にからだを動かしているだけではまずくなるので、ターンとかスキップとか指示行動が出てきて、そうした指示への反射とかからだのコントロールとかも生じて来る。父子で大泉の体育館に出かけて行って、マット運動や平均台(跳び箱の一番上の段を置いてそこに平均台の片側を載せて傾斜平均台をつくるのが常套的、もちろん転落しないように横にへばりつく)、ケンパなどをする。暁星は伝統的にサッカー好きでドリブルさせるから、赤いコーンを買ってきて、家の周りの道に並べて(幸い3軒先がもう畑という呑気な田舎に住んでいたので、車の通らない広い幅の道がある)ジグザグドリブルとかやっていた。一応シュート練習も。お陰様で受かった。

 

あと他にもいろいろあったような気がするが、もう昔で覚えていない。当時は家にコピー機を買って、教材的なもののコピーをがんがんつくって、2回3回くらいやるってなこともしていた。何度も言うが一日のなかでそれをやっている時間はごくわずかだ。うちは大部分おでかけしているので(大泉は車に乗らなければ買い物ができなかった)。そういえば、幼稚園のときは、スイミングと合気道をやっていた。(ご存知の向きがあるように、くにたちに越してからは、合気道が近くになかったのでなんと極真空手になって、これは長く続いた)。小学校からやってわりに長く続いたのは、空手と茶道とピアノと宇宙少年団だ。今も宇宙空間でお茶をたてる工夫を考えている。スイミングはわりに長くやったが本人としてそれほど泳ぐことへの執着というか、めっちゃ楽しいとかはないようだ。近視なのでよく見えないというのがマイナス要因らしいが、ただ基本のからだを鍛えるのにはかなり貢献したと思う、心肺機能とか。

 

ということで、お受験は、ペーパーだけでなく、ものづくり、共同作業、運動など多角的な面からなり、それぞれ6歳くらいでできて悪くないものが多いので、妙な偏見が食わず嫌いするよりは、ググったり、教材を調べて、お教室に通わなくても自分の気に入ったものを取り入れて一日10分くらいはそれで遊べばいいと思う。たかが10分。もちろん子どもが嫌うならNGだ。教材はそうしたコーナーでこぐま会がたくさん出している。アマゾンでも売っている。別にお教室=人生ではないから、おもしろければ利用したらいいって感じだ。でも、最近は子どもの頃から、ダンスなどさせるのが流行っているみたいだね。くるくる回るような今風の青年がしているようなダンスですね。でもまぁ踊れた方がひとつの芸としてはいいと思うぞ。リズム感は大事だし(自分はさっぱりない)。そういえばウチのは最後までお遊戯ダンスは下手だった。下手で可愛かったけど。