zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

傍若無人に勝て

たまにはそろそろ正義が勝つ場面も見てみたいものだ。

 

日大のアメフト部の反則プレー(なぜかメディアはちょっとだけ柔らかくラフプレーという表現を好んで、まるで法規の範囲内の許される程度の乱暴なプレーという表現ではないのか?)、まじ「傷害罪」ではないかというこの事態を日大自身が対応を誤って社会問題化というかワイドショー化になって事態の拡大を招いている。

 

この政権と同じ、雲隠れで証人が逃げるとか、上が責任を否定して下にだけ押しつけるとか、政権そっくりのミニ版を示していて、監督が日大の常務理事でNo.2だからだとか、これまで他の運動部でも暴力やパワハラの訴えをしたら、まるで「元気でよろしい」みたいにこの内田という人物が「大したことではない」として処分もせず、運動部のパワハラ体質を自分の部以外においても日大中に温存し、悪化させてきたという取材記事なども目にする。

 

これが日本の組織体質の縮図だとすれば、なんとなく思ったことがあった。

 

結局、右と左などという高尚な対立とかではなく、乱暴狼藉やりたい放題の文明化しない土人部族たちと、論理や理性、文明との対立に過ぎないのではないか。

 

もちろん典型的には、左右対立は理性重視の左という基本的なイデオロギー図式があり、右の心情重視というものは世界で普遍的なものだ。

 

しかし、この日本においては、それ以前に「ごちゃごちゃ理屈言うな」という反理性主義が社会に浸透し、理性的な説明を反古にし、バカにし、無効化してしまう仕組みが行き渡っているのだろうなと思った。

 

いずれにしろ、ここのところの内閣の一員である政治家の振る舞いを見ていても、論理的に答弁するという応答は陰をひそめて、脅したり、意味不明なことをつらつら述べたり、怒ったりというざまで、文明的な語りがひとことも聞かれない(野田提出の法案はそのなかでいくぶんまともであったが)。

 

そしてこの乱暴狼藉、恫喝というのが、侍や軍隊から通じているのかどうか日本文明史としてまだ分かりかねるが、少なくとも戦後日本においては運動部、体育会系というものと密接な関わりがあることをはからずもあぶり出した感がある。

 

日本のスポーツもずいぶん以前より科学的にはなったが、芸能もスポーツもよくプロで占いに依存する人が多いが、思うに、努力だけでは最後の最後叶わない「偶然」「運」という要素が働き、それが売れる、人気とか優勝するという要素に絡んでくる。

 

すると運は操作できないから、それでも無理に運を招き寄せようと精神主義に走る。

 

そこに根性とか、負けない心とか、「死ぬ気」「殺す気」でみたいな徐々に物騒な心持ちになっていくのだ。

 

優勝者を決める運動を全廃してもいいのではないかとさえ感じる。文明の邪魔になるなら、むしろそれに莫大な税金を投入してオリンピックなどする必要があるのか?

 

優勝なんか決めなくていいから、各地でリーグ戦やってればいい。本当にそのスポーツを愛し、それをすることが生き甲斐で楽しいなら、リーグ戦していればいいじゃないかと思うのですよ。

 

別に学会で一番とかいちいち決めているわけでもないし、各大学ランキングとか引用件数とか勝手に指標をつくって争いたい人は争うマインドが好きそうだけど、自分で十分価値があると思う研究に取り組めていたら研究者はそれでいいだろうし、企業の仕事も営業一位とかでなければいちいち経理畑効率第1位とか目指して仕事に励んでいるわけではない。自分の職分に意味を感じ、それを実行することに価値があるというマインドをもっと普遍化させるには、必ず金メダルを決めるスポーツのやり口は反文明とも言えるかもしれない。

 

これが日大経営陣かというのも驚くが、部長やっているのも副学長でどんだけ部活優先でそんなとこでスクールカースト作ってんねんと驚くが(それだけが理由でないと信じたいが)、小学校でも声が大きくて校庭で生徒を強権的に静かに整列させられる体育教師はそういうリーダーシップ発揮し、議論でも乱暴狼藉の大声出すことで文化系の方々を押さえつけ(知性ある者は怒鳴る者とあまり関わり合いたくないのでついつい賛同していなくても羊のようになってしまいがちだ、それもまた問題なのだけど)、そこまで権力志向でない人がいる中でひとり権力志向の体育教師は教頭になったりしていく。そうした学校構造考えたら、もう教科から反文明的な「体育」は外して、学生がお茶、お花をやるのと同じように趣味にしたい人だけが地域スポーツで勝手にクラブに入会してやっていればどうですかね。というか小学校のときぼくらや野球部ないけど、地域で自分らでチームつくって勝手に野球していて、大会までありましたけどね。勝手にやってればいいじゃんね。

むしろ学校教育のなかで一生ものになる健康を持続させるスキルを上昇させるからだを動かす取り組みなら、ダンスとかエアロビとか教えていたらそれでよくないですかね?

ダンスはあまり無茶苦茶系ではなく、ちゃんと振り付けとリズムの対応を理解して脳がからだを制御して動かすトレーニングになるようなタイプのダンスをみっちりやるとかでどうでしょうか。理性と情動のバランスをとるような取り組みです。表現活動にもなり、アート的要素もあるし。

 

野球とかサッカーとかフットボールとかすぐ「勝ちたがる」から、勝てないとき「相手の足をひっぱる」(特に距離をとれない、重要性を下げれないとき)のがテッサ-のSEMモデルの鉄板だし、構造的に悪さを動機づけるという要素がある。偶然この集団に生じた突発的アクシデントではないスポーツの構造的問題だと思う。巧みに反則まがいのぎりぎりやってうまく勝つのが賢くてエライとか思っている人が多いかもしれないし、ひどい場合、あいつ(けがさせた加害者の選手)はもっと目立ちにくい場面でもっと巧みにやるべきだったと思う人がいたら本当に言語道断だと思うのだよね。そういうことで下手したら生命や人生に関わる怪我を負うわけだから。本当にスポーツって下手したらからだに悪いよね~。わたしは平和に歩くだけで人生過ごしたいと思っていますが。そもそもフェアプレーなくしては、全くもって道徳的、社会正義的に有害になってしまう。

 

このように横暴で傍若無人なものたちが極力冷静に紳士的におさえた理性的な関学の声明に対してまともに対応できないときはしかるべき罰や結末を受けてほしいと公正世界観なみに感じてしまいます。このままだと退部続出、部の崩壊(なにしろ就活のときに日大アメフト部ですとは言えないかもだ)につながれば(学生はなにより就職への影響が最も敏感な最大の人生事項だから)、伝統ある部を崩壊させた責任者として末代まで名が残るであろう。

 

理事長はいくら自分のかわいい腰巾着だからといつまでも内集団、お友達優遇しないでこういう際はさっさと冷徹に切り捨てないと、自身の政権の延命にも関わるわけだから、常務理事解任とかのリスクマネジメントした方がよいと本当に真剣に思うぞ。

大学法人は校友の世界が強く、教員はほとんど影響力がなくて、出身者達に人気がある花形スポーツ関連が受けがいいという私立大事情は痛いほど分かるが、それにとらわれて代わるものを育て、準備せずに依存することは腐敗の始まりだし、統治のプランとしてもあまり賢くなくてお勧めできない。責任が生じたら、パッと詰め腹切らせる、これでないと組織モラルは保持できないし、結局組織をずんずん腐敗、不健全化させてしまって、元には戻せない決定的な地点を越えて、組織を滅ぼすのだ。

 

傍若無人な「元気でよろしい人たち」に対して、健全な人文知を持つ理性が打ち勝つ姿を見せていかないとそろそろ、まずいんじゃない。

 

内田さんが実は安倍さんのお友達でした~、ゴルフ仲間で~とかだったら大爆笑なオチですよね。

 

書き込みに混ざっていた周辺の個人的なできごとは個人的なやりとりだったので、見えるように置くのは避けるべきかと思い直し、削除いたしました。