zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

職権構造からの解析

社会的・状況的要因を重視する社会心理学の観点からは、たとえばある政治状況がよろしくないと感じているとき、それを担う個人や政治家のひとびとの個人的思想傾向や人柄(うそつきとか)に帰属する批判も起こりがちであるが、「それ以外」の要因にも目を向けてみることも有益であろう。

 

たとえば、日本では自民党内の主流の変遷や思想傾向の変化が見られるのだとしたら、それが利権構造とどう連動しているか考えてみる。

 

話を見えやすくするためにあえて簡単な「例題」として、思い切り単純化して描いてみれば、仮に「昔」は自民党員はもっとリベラルであったが、今右に振れているというのが本当に事実だったすれば・・・。

 

かつての利権構造では、開発の誘致や大型公共工事プロジェクトによってキャッシュバックや裏金の賄賂で潤っていたとする。前提に「政治家になりたがる人は権力好き」ということを措定してみると、「権力ピラミッドの上に行きたがる」という命題が演繹される。上に行くには通常金がいる。金の出所は主にふたつで、「元々資産家である。資産家の家系である」か「自分で稼ぐ」ということになる。

 

この後者の「自分で稼ぐ」派は、権力を得るためにどんどん新たな金が必要となるから、賄賂的利権に結びつく。それで一昔前の日本ではときどきこういうのは立件されてつかまるが、その背後にはつかまらなかった水面下の氷みたいなのがドンとあって、要するに社会全体でこうしたことに甘い傾向があったから、それでいけてたのだろう。

だから建設族などの建築利権は、内需拡大をうたっていて産業振興していればいいわけだから(新たな工場用地取得や工場建設なども含む)、旧大蔵省と建設省運輸省あたりががんばっていればいいという非常に内向きの視線で問題なかった。

 

これらの内需は平時の需要だから「明日戦争になる」ときに家を建てるやつも設備投資するやつもいないわけだから、穏便に平和を追求した方がいい。これらが旧田中派経世会)や旧大平派(宏池会)系の保守本流のあり方で、平和の追求と穏便な中道的語りでよかったわけだ。

 

しかし、バブルで最高の土地、建設利得を得たあと、それは逆に不良債権となり、この不況を経て内需が縮小したあとには、もうけ口は限られるようになった。もともと大きな土地が開発されまくってきたわけだから、こうなると残っている大きなものは国有地払い下げ、用途の変更(まさに長州藩下屋敷だった防衛庁の跡地がミッドタウンとして開発されるように)であり、そうしたなか森友問題みたいに払い下げ利権などが起こるわけだ。動かせる土地が限られるもんだから、最近は文科省を通して、巨大な「大学用地」を動かすような話があり、うまくいかないと文科省以外の「特区」みたいなので土地取得を容易にしたり、あるいは省庁天下りで大学理事となる人が大学の土地転がしをしたり、大学用地の切り売りをしたりして儲けるのだ。

 

しかし、これは所詮旧モデルであり、限界がある。同様に電波利権や送電線利権みたいなものも突き上げが激しく、だんだん安泰とはいえなくなってくる。

 

そうしたとき、アメリカが典型的にやっているような戦争利権みたいなものがあり、軍需産業で稼ぐということ。この場合は従来とは異なり、「平和ではいけない」ので、敢えて「平和が脅かされる」ことをプロパガンダする必要がある。人々に不安の脅威を受け付けることによって高額の武器、設備購入が受け入れられやすくなる。安全が脅かされたら何もかも仕方ないのでと、特別予算も振り向けやすいのだ。仮にここに他国の資金などが流れいるとしたら利権もでかくなる。

 

どこの資金かはわからないが、そうした資金の蓄積が○○会議みたいなところを経てばらまかれると、右寄りの発言をした方が「儲かる」という利権構造が成立する。昔はそんな発言では全く儲からず、却って攻撃を受けていたのが、逆に利権構造となるのだ。

 

そう考えれば、政治家が右寄りになるのは個人的思想がどうとかいうよりも、利権のある場所、金の来る場所に惹きつけられて、「望まれる発言・行動」をとるようになっていくという発展プロセスが仮説として考えられるわけで、検証するならそうしたことをデータから検証すればいいのだと思う。裏金の流れをデータ化することが困難だからデータ分析による研究はついつい表の顔の分析しかできなくなる。現実に「見える」(「ある」ではない)ものしか分析できないのが、データによる現状分析だから、わたしのように見えないものの方がずっと好きというたちでは、現在のデータがそれほど興味をひかない。しかしあるいは、だんだん予測がすごくなっていくだろうから、現状からはじき出した将来予測みたいなところから面白いことを考えられるかもしれないが、それも裏金とか見えない変数なしでの予測だから、どうだろうかなぁとは思う。

 

だから自民内でいまどき中道っぽいこと言っていても受けないし、なんの得にもならないし・・・という風に時代が変わってきたのかもしれない。

 

そもそも「政治家になりたい人」は「何かを変えたい」モチベーションの高い人もいるかもしれない(単に大もうけしていばりたいだけでなく)、自民は従来変えるのではなく「維持する」政党だったわけだから、それなのに「変えたい」病の人がおおぜい自民に来たら、現状を変革、維新みたいに右巻き転回というのもひとつの解だ。これは個人差要因と状況との交互作用だが、そういったこともあるのかもしれない。

 

以上。

 

 

どういう社会を構想するか

続きを書いていたらテキストがふっとんだ。いっぱい書いたのが全部飛んだ。気分が大いに落ちて二度と書く気にならなかったが中途半端になっちゃうのでなんとか書く。パソコン調子悪いから今も変換がしばらく時間待ちみたいにスムースに画面に字も出ない。書けるか・・・。

 

前の記事もあるから何を書いて何が書いていなくて飛んだのかもう分からなくなった。

まず複線化だ。戦後、高専などもあるが、およそ学制のシステムが単線化して、商業科、工業科等々もつくったが、結局、普通科が基本でそれらは普通科より下位にあるもののごとく扱われるようになってしまった。

 

本来、進路を決めていく時期はひとによっていろいろで、またそれ自体人の選択の自由となるわけだが、そうした自由を保障する意味でも、多様なルートが社会のなかにあることが大事だ。同窓会で工学系の人と話していてもの作り現場でのモラル低下とか言っていて、そうしたかつての匠の精神とかやはり意識して維持できる仕組みを用意しないと放って置いて保たれるものではない。細かなところを行き届かすというのは生産効率は悪いので、完全に資本主義原理でやっていくと淘汰されかねないのだ。もちろんその付加価値が正当に評価されればだが、本当に労力に見合ったプラスアルファの値が十分つくのかどうかが重要だ。そうすると、今の段階ではある程度の補助とか、育成の補助とかそういった対応が必要となる。なによりもさまざまな仕事での相互リスペクトが大事だ。適切な賞賛を互いに与えるような形をとらないとやる気も減じるってもんだ。

 

 

一方、世界基準では、多くの場合、学士は最低必要という観点があれば、学士を出す教育機関はそう減らす必要はないかもしれないが、ある程度私学の整理、統合、淘汰はやむを得ないだろう。それよりも重要なのは地方国立などはもっと生かし、というか国立大学としての扱いを復活させて、建物、備品周り基本的なところにきちんと税金投入しないといけない。

 

前に書いたと思うが、学会正会員の研究者の給与は税金からの払いである程度高額のインセンティブを保ち、継続的な業績のチャックもある程度すると。こうするとたいへんな税の投入になるかもしれないと思うだろうが、社会ビジョンとしてだからこれだけ考えるのは無理なのだ。

 

わたしはもっと大きな政府を構想しているので、まず、行政の透明性と第3者チェック、チェック機関の給与、報償の確保という前提の下で、もっと行政への信頼を増加させた上で、より高額の税金により、富の再分配を考える。だから大学教員だけでなく、小中高教員の給与、また保育士、幼稚園教諭、介護士等々の公的な社会に必要な役割を持つ仕事に税金を投入する。もっと賃上げするということだ。

 

 

もともとこれらの人を育てる、健康を維持するなどの仕事は、資本主義的観点から見れば利益率の悪いもの(長期に見れば見合うけれども)だから、公的機関から給与を出す。スウェーデンだって女性の就業率が高い背景に女性の公務員率が高いという構造がある。日本は人口あたりの公務員人数の少ない国で、要するに行政サービス含めて、「人的サービス」に金を払うのが嫌いな国民性だ。相談など、弁護士やカウンセラーに金を払う時とか、マスコミが研究者にインタビューして金を払わないなど、「物の購入」でない見えない人的労力、専門知の提供や利用について「金を払う意識」が薄い。まずそこからのマインドを意識して変えていくしかけも必要だ。

 

そうした人によるサービスを労働者ががんばって密度高く働けば安い金でたくさんのサービスが手に入るという卑しい根性をあらためて労働に対して正当な対価を出すのが当然の社会にしていく。

 

こうした全体的な社会ビジョンのなかで、研究者も国民に支えられているわけだから質保証しつつ税金を使うってわけだ。

 

AIやロボットの発展で長期的に見て、労働人口、人数は少なくて済むわけだから、そういう社会を迎えるにあたっての準備として、労働の集約や効率化は政府も関与する方向にシフトしないといけない。なぜなら完全民間だと、AIやロボット導入は大企業、投資的に金を集めた経営者、金のあるところから先に進み、その個の企業の財産としてAIを使い、大量に労働者を整理、解雇して、その経営人だけが効率的に得られた富を享受するという結果になってしまうのだ。つまりAIの導入は富める者をさらに富ませるだけである。

 

だから、AIの導入には政府補助金を用いて、大々的に政府が関与することで私企業の持ち物という性質を減じ、「社会的に行った政策だから公的な責任がある」というなかで、ベーシックインカムの導入とか、効率化によって転職を強いられたり失業したりする者のセイフティネットや再教育に予算をあてていく必要がある。国全体としては効率的に同様の生産が可能で、その利益をやはりおおざっぱには国民全体で分け合うということだ。

 

完全な社会主義なんかじゃないから、もらうものが平等で皆同じとは決してしないが、だからベーシックインカムにプラスして少しのアルバイトで低燃料で燃費のいい生活をしたい志向性の人は、それほどがつがつ働かなくてもそれも自由ということだ。

 

多様性承認は大事で、人の生き方をいちいちうらやんだり、非難したりせずに、どうやっていけるかは社会心理学的課題かもしれないが、努力すれば新たな技能がほぼ無料で身につくようにして、転職がしていける再復活可能な社会、すべり台社会とは逆の社会にし、そういう点でも大学も人々の再教育機関としての役割を果たし、今のように18歳ばかり入学するのではなく、人生のいろんな時期に学びを得るために来ることが保証される必要がある。

だから教育は無料化、あるいは低額の支払いで享受できるように保証し、しかし、今の悪い案みたいに変なことを大学や教育機関に押しつけるのではなく、給与や補助金を出すということだ。

 

こうしたことは高い税と言っても人口減る中で無理で不経済と思うかもしれないが、格差の大きい社会となって、不安定化していくリスクを考えると損はないと思う。心理的安定の上に生産性の高さがついてくると考えられるし、格差によってスラムや犯罪の増加などある方が社会リスクである。なにより社会に安心がないところでは、人心は殺伐としがちだ。

 

所得税はもちろん累進課税でとるし、それなりの法人税をとる。タックスヘブン対策はひとつの案として荒療治で人権上難しいが、そうした確信犯の企業の従業員の公的サービスを受ける資格の停止(猶予期間あり、転職、再就職で問題なし)とかいろいろ措置の仕方はあるが、大きな政府方針でやれば公的サービスなしで生き延びるのはかなり辛いはず。自腹の医療とか保険とか。この日本の地で生きていきたい限り、モラルのない会社では働かない、損になるから働けないとすれば、自動的にそうした企業は純粋に「外国企業」とならざるを得ない、それでいいでしょう。儲かっている企業を惜しがらず、新たなものを立ち上げる前向きでいきましょう。雇う日本人が0人で人を雇えなければなんなりかの対処を考えざるを得ない。

 

たぶん将来も幸か不幸か自動翻訳やウェアラブルな装置が増えれば、自分で英語をしゃべることが苦手な日本人はまだまだ多いだろうから、悪い企業の従業員のままで日本で公的サービス停止だから他の国に移住しますわ、って人々は少数で済むと想像される。

 

企業モラルに対しても法的な対応で信賞必罰的にシステムを用意すれば、要するに「不正したらめっちゃ損」というインセンティブ構造で不正予防、減少を目指す。

 

間接税だってかなりどこでも費目によって違うのは当たり前で、日本だけそれできませんってそんなおバカな国民でもないだろうから、ちゃんと食料品、必需品無課税で、それ以外から消費税課す形で運営すりゃあいい。

 

所得税の累進制が高くていやな金持ちはどうぞ日本を出て行ってくださいと思う。薄汚い精神しか持っていない者は結局社会のモラルを荒らすだけなので、そういう人はいらないと思う。

 

どうでしょうか? フランス革命のように強権的でなく、社会主義ほど平等で強権的でなく、ヨーロッパ的な社会民主主義をより大きく日本に導入していく社会づくりのプランですけど、そうした全体の構図のなかで、研究者を社会のなかにどう位置づけるかを考えているつもりで、だからある程度これは漸進的にしか進まないと思うけど、もしかして50年後には当たり前にそういった社会になっているかもしれない。

 

少なくても、格差により低位にいる人、貧乏な人をあざ笑ったり、差別したり、攻撃したりしてうさを晴らすのは、一種の「暴力的な対処」なのだから本当にピンカーが言うように長い年月にわたって、人類が非暴力的な方向へと文化、社会を構築してきているのだったら、

そういった暴力も、今のわたしたちが江戸時代の切り捨てごめんみたいなものをあり得ないと思う程度に、野蛮で原始人のような「信じられない」状態だったんだねぇと未来の人たちに思われ、そうした原始的な暴力が景を潜め(0にはならないけど)、簡単に低位の者をdisらない社会程度にはなっていくのではないかと祈るものです。

 

楽しかった

最近同窓会が楽しい。うちは0:00門限だから、TY大にいたときもそう遅く帰宅することはなかったが、ついついこの1月の東京同窓会だけは、昨年も今回(昨日)も、午前1:30タクシー帰宅みたいになっている。仲の親しいYくんが、初台に住んでいることもあり、初台までの運賃を割り勘できるのも助かるから深夜帰宅の勇気?をもちやすいのだ。

 

特に今年は移籍のこと含めて自分の立ち位置が自分のなかではっきりしてきた、そして(定年退職後は分からないが)もう最後までこことようやく初めて居場所が定まった安定感を自分の気持ちのなかで感じているので(本当に初めて!)、開き直りとも言える自分のできることがある意味、ここまで、この程度と割り切るところから出発できているのでむしろ曇りやわだかまり、引け目さえない。

 

昔、ちょっとした飲み会(GDの常任理事会後だったと思う)ときに、誰にも言えない気持ちをちょっと理解者?に小出しみたいな気持ちで信頼しているFくんに、「同窓会で劣等感感じるんだよね~、ホント自分あかんって」みたいなことをちょっと言って、たぶん趣旨は十分わかってくれた上で上手に冗談返しで「人に言うと首締められますよ」と言われたのもよかったことで、世の中でこういうことさえあるのだと発信できたのはずっと気持ちの奥というか底にしみじみと残っている。

 

実際、5分ほど遅れていくといつもと異なり最初全員が、関西から上京してくれた担任団の英語の先生、元校長(私らの卒業後に校長になられていたが、すでに退職)のため、名前と所属クラブだけをだーっと言っている最中の、真っ先のテーブルAをひいたので着席と同時に自己紹介。そしてそのAテーブルは、隣から、医師(開業)、元国土交通省、医師(神戸大)、民間、つくばの総研(医師)、幹事している生保系、医師、司会の後述のTVにも経済評論家的に出ているコンサルである名士(名家の出でもあり、名家と婚姻している)ということで世間的には超立派です。

 

文系研究者は今回はわたし1人(東京ではだいたいそう)、近いのか近くないのか業界的に近いのは、ずっと日活で監督をしていてそれ系大学の立ち上げと共にその事務局長として赴任された人で、映画を文系というかまぁ芸術系なので・・・、大学関係者という意味で。あと大学人的になっているのは理系で工学系からTK大学という海に縁のある大学で今学部長をしているそうだけれどと、千葉大の外科で長く学生指導もしている医学部教授というのがいるがこうして理系の方が圧倒的に多いのだ。

 

二次会で座ったところでは、向かいに外務省局長、となりは医師、あ酔っ払ってもうその隣が思い出せない・・・、外務省局長といろいろ話せたのは興味深く、とてもよかった。

 

ちょっと以前までは(成績で引け目は全くなかったが)、社会的名望ということで、なんか場違い感が強く、互いに知り合いのつての話とか、仕事上のつながりでも交流のある話とか日本のトップ層での人脈的つながりを感じさせる(企業でも役員とか)話には全く入っていけず、そういう方達が利用させる名店も全く無知で名前も知らず、もとよりゴルフの話は関係なく、財産を拡大させる投資話も縁がないということで、あまりそもそもかみ合うような話はない。だいたいが、わたしが中道左だから、志向性も全く違い、とにかく株価が上昇したことを喜んでいたり、やはり従軍慰安婦の問題で海外世論の方に怒りをぶつけていたりなど考え方や立場も違い、近いのは生協の理事になった学友くらいである。

 

しかし今回は心理の立場から言える、言ってみることも増え、3次会では意外に文化的な話に花が咲き、仏教などの日本宗教の話題、ネタ(親とかの墓の話から流れていくわけだが)、医師のひとりが鎌倉仏教の最近読んだ話を語り、だいたいそのネタは全部わたしの頭にはすでに入っている話だからうなづき、捕捉やあいのて入れながら聞いていたが、(失礼ながら)驚いたのは、先のコンサルさんもたいへん知識豊富でそのあたりよく知っていらっしゃるようだった。学生時代、あまり勉強熱心に見受けられなかったためその辺(社会人力や人間力の高さは感心していたが)、知的側面では少しなめていたが、やはりただものではなく、おうち周辺の立派さ(東大医学部教授、東京帝国大学医学部教授)とか聞くと、結構地頭いいんだなこの人、きっと「お勉強的学習」がものたりないで嫌いだったんだろうなぁと見直し、またトップ層との交流はこうした知識の蓄積や磨きをかけていくこと、実際的に知ること(宗教トップ層と会って話をすることもあるかもしれない)などもあって十分賢い人になったのだろうなと感銘した。

(ちょっと宗教の知識を知識のメルクマールにしがちなのは私の個人的バイアスかもしれないけど・・・)

 

そういった墓やらなんやらの忌憚のない?話の流れで、自分の関西に来た介護と言ってもそのなかでの本当の理由とか、実家からとりあえず距離を置いて去る、本当の兄弟的理由とかも自然に語ることもでき、周りも素直に聞いてくれて、介護、家族、遺産、財産分けトラブル(の未然防止)など、より資産のある方も直面するさまざまな自身の経験と照らした共感が互いに自然に交換できるようになったのだなぁ、この年齢にして・・・と思った次第。

 

飲むと最後すぐに眠りこけてしまうYとタクシーに乗り、初台でおろして、いつもより少し満ち足りた気分になり、ホロ酔いのなか帰宅したのでした。

覚書

バカボスをつくるための小学会乱立を防ぐ。補助金の審査システム。審査側が博士号レベル。

地域、いわゆる学閥のフェアな併存システム。特定のくだらない学門的立場保持のバランス。

補助を受けない三流同好会的学会なるものの維持。名称独占にして「学会」とは呼ばせない方が一般の人からは分かりやすい。

同様にまるまる大学みたいな変な大学でない学舎に大学と名乗らせない。別の名前工夫して。

これらは「ことば、概念」を大切にしない日本社会の近代化でもある。ことばは字義通り用い過大な混乱を回避する。呼び方だけ変えてはぐらかして、誤魔化すことを社会から一掃する(影響大なるものを犯罪と認定)。

テニュア的な会員資格と限界。10年程度として引退会員、卒業会員?みたいにする。もちろんその間に不備なことしたら破門。

資格審査、心理なら30本くらいの論文審査、継続業績、1-3冊の書籍でも推薦と何名かの審査委員会で通れば正会員可能か。単純に業績の本数よりも見識の方が大事だし、さりとて不勉強な者は話にならないから、審査はもちろんパーフェクトではないが、いろいろできる工夫は必要。逆にいろんな形態の意見、見識、考察を発表可能な媒体の創設も効果的であるかもしれない。心理学評論みたいな感じのをやや柔軟にして毎月発行。

社会全体で知の拝借、相談に金払うマインドつける。労働評価の改善。

学会の質向上のために人がもっと来るように。

たとえば国立大学教員は専門分野で学会員として認められてたら年俸3000万、破門とかで会員になれてなかったら1200万とか。国立は国立に戻して安定給与と雇用。各地方の国立大学の運営費を大幅改善。

学会のあり方

大学院教育と研究者のことを少し書いたので、どういうことを結局考えているのか背景と全体の概要も示しておきます。一部だけ「そのように」しても目的は達せられず、誤解と被害だけが出るというのは政府の政策でも多く見られますよね。

 

学会、研究集団の質の向上と確保ー人々からの付託という観点から。

 

学会の会員などは裾野を広げられるように、あまり入会資格をきつく問わない方がいいという考えがありますが、わたしの全体的ビジョン(そのなかでしか意味を果たさないが)では違います。レベルや資格を複数設けて、

 

正会員

準会員

協賛会員

学習会員(聴講とかでも名称は何でもいいが)

学生会員(あってもなくてもいい)

 

ポイントは準会員と正会員の関係で、たとえば心理とかなら正会員は200-300名程度にしておいて、あとは全員準会員とか、はっきり言えば「会員資格」に「アカデミックな権威」と言ってもいい(あまり好きな言い方ではないが実質がそうだから分かりやすいようにそう言っておく)ものを持たせる。

 

こうした学会には税金から昔の科研費からの支出のように支援金が出てもいい。それは人々が自分で研究する余地(ゆとり、資金、あるいは能力)がないところを社会からの付託として「研究活動を行ってください」と日本なら日本社会として「学問・科学」を社会のなかに置いておくための費用として税金から拠出するという理屈である。資金はもちろん「運営資金」に使って良い。学会事務への給与とか事務所代とかも。

「教育」側面では社会からの付託で高等教育を担うことへの国からの支出として私学助成が存在しているのとパラレルな「研究側面」への支援ということだ。

 

そのためには、「信頼できる研究」がなされねばならない。もちろん科学は進歩するからずっと後になって間違っていたとか違っていたという場合もあろうが、そのときの観点から総力かけて考えたがこういう結論ということは全く「絶対的真実」ではないが、そうした学術知に信頼を置くということで、また、信頼を置けるようにするには、学会会員がメディアででたらめ述べ放題という一般の人が不信を感じることを助長する行いを規制、あるいは適正に対応することを含む。

 簡単に言えば「確信犯的に自分でもひどいいいかげん、うそであると分かっていることをメディアで述べたり、言い散らしたり」したら会員資格を剥奪する。

 大学や研究機関は採用時にはそれなりに厳密な審査を行うが、一旦採用されると日本の現状では大学教授は間違ったことも言いたい放題である。それ自体で罰されることはほとんどない。大学の教育職員は複合的な業務なので研究だけでないという点も難しいし、個人の職業、収入源を簡単にいじっていいかという人権問題も発生する。

 

しかし、学会は1年ごとに(随時でも)会員資格を問えるし(年会費の支払い)、破門は簡単である。そうすることで「学会の見解」というものを少数で話し合って打ち出すことも容易になり、「この点について権威ある学会はどう考えているのか?」という庶民の素朴な質問にもずっと回答しやすくなる。そこで全く科学的にでたらめを言うやつがいたら破門して、そいつの言っていることは学会見解と異なります、その人は「学会員」ではありませんと言えば、科学の素人でも分かりやすいのだ。

 

素人は「学会員」となるだけで権威あるように勘違い?している。いや、むしろそれが世間の考え方に近いならばそっち側に寄せていけばいいのだ。誰でも学会員としてでたらめ、てきとーなことが言えて学会員がそう語っているという現状を変えて、でたらめいうやつは「学会員」ではないとしてしまえば明瞭に、「科学側の立場」がはっきりするのだ。

 

今は、あまりに雑多な会員を抱えているため、会員内部で相反してはっきりした意見を打ち出しにくくなっているという欠点があり、その結果ある意味、学会はあまりそれ以外の一般の人と十分コミュニケーションがとれていないという現状となる。もちろん論争中のことは論争中という見解でいいのだし、有力な考え方が3つあるならそういえばいい。学会の見解だからといって「唯一の真実」なんて用意する必要はない。ありのままを説明すればいい。学会サイトに対立する複数の代表的文献を記載してこういう論争が今ありますと紹介するのもいいのではないか、というかむしろ積極的にWebを利用して情報発信すればいいと思う。

 

さて、「準会員」は修行中の者であり、まだちゃんとした見解を説明できる力量を備えていない者という位置づけでもちろん一生そのままの位置づけの者がいるかもしれない。前の日記でdisったような方達だ。この準会員、会員という区別をつけることで税金拠出により付託された学術研究の信頼性を担保する。要するに信用できない研究者はいつまでも準会員で会員になれないってことだ。なんなら準会員に程度差をつけてもいい。

今もある出版社などからの協賛はありがたい。協賛会員としてもっとニュースレターとか出して、知見をお知らせする他、協賛会員へのインタビューとかして掲載するのもいいと思う。

 

他の周辺、関連分野でアカデミックとはちょっと違う職業人している人は聴講的に関わってもらう。もちろん優秀な業績満載出せばそう言う人でも会員になれる。が、たいてい今の日本の社会状況でいえば学術程度は高くなく博士も少ないので、博士号とって官僚しているとか、なんかの仕事しているとか少ない。だからたいてい実力的にも聴講や学習という修行期間か、あるいは自身が研究すると言うよりも積極的に成果を学んで役に立てないとかそういった人が学習会員になって主に「知の消費者」として関わる。4000-5000円くらいの年会費で、正会員は2万円くらい払うといい。(準会員は今と同じくらいの8000円とか)

 

だから裾野は狭めず、ただカテゴリーを複数つくり取り込みながら、責任主体の質向上は確保するというやり方だ。

 

同窓会に行く時間が来たからここで第1部終了。以下まだ続きます。

 

 

文系の総合知

別に文理分けたり、だから文系に限る必要は全くないのだが、たこつぼ専門が指摘されてもう日は長く、より総合的な取り組みも求められている部分があるだろう。

 

理系の方から省庁への要望(具体的には意見聴取していたときの河野大臣へのリプライ)に、実績に応じて「研究計画」でなくて、「人」に予算つけろ、そうしたら安定的に長期予算の確保でイノベーション可能になるぞというのがあったりした。計画なんて特に発明創造的な理系研究では「予定」「予測」どおりいかず、むしろ失敗から発見があり、軌道修正するなかで思いもしなかった展開によって発見がなると。つまり計画であらかじめかけるなんてことはわりに陳腐な発想かもしれず、本当の新発見はそれを越えたところにあり、それを促すシステムなら工夫が必要だと。

 

これは難しい問題で人に予算が固定されると新規参入者や若い人はどうなるのか、結局優秀な先生のもとで、共著などで実績を摘んできた人が有利になるのかとか悩ましい点はある。しかし、いずれにしても今のように若い研究者が身分不安定で、だから大学院に人が来ないとか構造的な問題になっていて困るわけだ。

 

言ってみれば人生見通しができて、頭のよい人は皆研究者にならずに企業等に就職し、それより頭の悪い人たちが研究者になっていっても当然、尻つぼみになっていく(まあそのあと、ぐんぐん伸びる要素がなくはないことはもちろん否定しない)。

 

文系において「頭の悪い」研究者(わたしの勝手な定義)は、本当に細かい自分の専門分野のことしか知らないで、自分の研究の位置づけさえも分からない人だ。もちろんこの高度に専門化して科学が発達した世のなか、すべての知に触れることは不可能だし、たいてい専門家は専門以外ではあほだみたいなことはここでも書いたし、人も言っている。

 

しかし、重要なのはものには程度があるってことで、この微妙な「程度測定」こそが心理の十八番ではないか。膨大な知の海の中で、今は「無理、不可能」だから自分の専門に深く邁進して、他の知を顧みられないのは「仕方ない」と言い訳して知ろうとしない。でも頭の動きが本来活発で好奇心があれば、自分の専門からの関係で芋づる式でいろいろなことに興味を持ったりしないだろうか。

 

わたしの先輩で年ごとにテーマを決めて全く関係ない分野を勉強するって人がいた。まず入門書と概論書を3通りずつくらい見れば、およそその領域が扱っていることが見えてくる。そのうち、特に興味のあることがあったらその分野に特化したより専門的な本を読む、すると問題の扱い方や方法論の詳細も見えてきてその学問のスタンスもより具体的にわかるってわけだ。

 

そこまでいかなくても、私見では、心理関係なら分野にもよるが、医学、脳神経の方に行く方は理系的でまぁ本当は哲学やってほしいけど、考慮から捨て置くと、たいていのものは、哲学、社会心理ではある種の社会学や社会問題など知っていた方がいいものと思っている。

 

本当に専門のことしか知らないと、本の章を書いてもらってもつまらないし、ちょっと外周よりのことで間違ったこと書いていたり、最終的な目標は何?みたいなことが迷走していたりする気がする。

 

特に初心者は明瞭だが、この間も院生と話していると、それを研究して何が知的貢献になると思うのか詰め寄ってもその辺の思考が甘いのだ。学会誌の論文査読していてもうまく問題部分が書けていなくて、これわかってどう意味があるのか(むしろ教育的には事態を悪化させることにしかならない気がするようなものとか)疑問を感じるのに接することもある。

 

さて、院生に莫大な罪はないかもしれなくて、やはりそういったところが指導教員の影響ではないか。指導や雑談のなかでもっと広い視野の考え方に触れさせ、考えさせるとか。

 

悪いけど、某大学ではあまり指導教員にその傾向があまりないように見えるからか、院生たちも総じて知識が薄い気がする。別に偏差値至上主義で七帝じゃないとだめとか言わないが、本当は総じて二流私立大のものはアメリカで言う「教育教員」にはかろうじてなっても研究教員などすべきでないと思っている。3流私立大学に就職して研究者になどならない学部学生などを実験実習などで教えているのは要するに教育教員だからまぁ大目に見れるだろう。だけど、そんな人から一流の研究者が育つとすれば、全く本人の資質であって、「指導」「影響」という点ではどうだかなぁということだ。なぜこういうかというと、能力のない邪魔な低脳教員が本当に総合知でも優秀な(あるいは優秀になりかけている卵)の就職を物理的に妨害して、雇用不安定にして、研究の場への参入を妨げ、また難しいものにして、初めから近寄らないように企業への就職とかそういった方向に才能を浪費してしまう悲劇が深刻に進展しているように思うからだ。優秀な研究者になれそうなのに、残念ながら研究の世界の土俵に入ってきてくれないとか。

 

だから各大学が資本主義的原理で、お客さんが多そうなマーケット、心理や人間を大学学部学科に乱立して増やし、またことごとくそこに大学院をつくって文科省もまたそれをことごとく安易に認めてしまう。確かに教育教員的な就職マーケットは拡大するし、そこがバランスとれればよいのだろうが、現状ではやはり求職者が溢れている。

 

話戻ると、だから某大学の院生(元院生、PD,とかとか)に本の章の分担執筆とかあまり頼まない。少数の知識ありそうな人しか認めない。

 

学会ってのは本当に互助組織でそこあくまで甘くすれば、自分の分野でしか通らない、しょうもない学問知でも許容されて、査読もピアレビューだし、多くの教員採用も内部の心理の人が関わって採用したりするから、飯食える生息場所だけに堕す危険がある。学会大会とかで仲良くし、人柄は申し分なく、だからと言ってすべてを許していると、学問レベルが低下するだけである。裾野が広がると言えば聞こえがいいが、実質、審査が働いていなければ大会発表などくずが溢れてきてしまう。また馬鹿は自己客観視ができないから、発表していればこんな研究でいいんだと自己納得してしまうし、ますますくずぶりが定着してしまう。

 

少なくとも指導するなら教員採用時に、なんかⅠ次試験した方がいいんじゃないか。線形代数程度の試験と、統計的方法、そして哲学分野から問題出して解いてもらう。

 

そういうことが定着すればいずれ博士号審査要件にそういうものも加味されて、今もすでにかなり増えているが、大学院の博士前期課程や後期課程で、より高度な統計的方法論の講義や数学の授業の単位をとることを必修要件とし、さらに哲学でも単位化すれば博士号取得時にある程度のその能力の担保ができるようになり、いちいちあとから試験する必要もなくなるかもしれない。フランスみたいに大学入学者全員がみたいにはいかないだろうけど(改革が検討されているらしいが、ざんねんながら)、ある程度哲学的素養をもつとかね。

 

あたまをあれこれ回す余裕がないと、ルーチン的な自分の分野の研究方法だけを修得し、狭い範囲のテーマで同じ尺度をいつも使って(それ自体安定的知見で悪くないが、テーマ変えないってことで)、とりあえず何かの相関出たってことだけ量産している。業績が増えてもそんなのくずだ。

 

非常勤先が次年度から大学院の授業、社会心理学特論でなくて、教育心理学特論に代わった。で、適当に教育心理学と名の付く教科書っぽい本を2冊買ったが唖然とした。内容が超ふるい。遺伝の環境の章が輻輳説の説明とかでとまっていて行動遺伝学の知見など全く触れられていないとか、パーソナリティ発達が結構精神分析的発達理論にページがとられていたりとか、せいぜいビッグファイルだけ半ページほど書いてあってあと全くないとか、これはあれですかね、教員養成上、なんか必須となっている「教育心理学」とかの科目でそれが全く改訂されないで、教師が知るべき教育心理学と知識がストップさせられているのでしょうかね。教員採用試験でこれしか出ないとなれば、センター試験と同じで心理領域と言えば、防衛機制とか・・・みたいに決められていて試験対策考えると踏み出せないとかですかね?? 買うテキストもっと目次見て吟味すればよかったが、他の領域の本の方に主眼があって、ついでにこれ2冊買ったので中身も見ないでしかも紀伊國屋梅田店にそういっぱいは置いていなかったので代表っぽく見えるのを取ったのだよね。標題で代表っぽくなさそうなのが直観的には気になったが、本当しまった。つまらないものを買ってしまった。臨床大学院で教師になるわけではないから、そうここにこだわって教える必要ないのでもっと先の方にがんがん行くつもりだが、20年前くらいと全く変わっていない様相に本当にびっくりした。一瞬教育心理学滅びろと思ったくらいだ、それは早計だが。これは別に著者が「バカ」だからこうなっているわけではないのだろうが、じゃぁ教育課程こさえている者がバカなのか、知識を更新するという意欲や好奇心や科学的マインドが全くないのか?

 

そういう意味でも文科省の官僚、各省庁の官僚、メディア含めてバカは一掃してほしい。日本社会も、官僚、メディア、ビジネスでの役員など役職者、政治家、皆、「博士号」が必須という規定にしてしまえば、大学も大学院も日本社会もそうとう変わってくると思う(無策だと簡単に博士論文かける、ずだぼろの大学院が増えるだろうけど、そこをがんばって何年留年させてもいいから「質保証」をがんばれば)。

 

研究者だけでなくて、社会のなかで頭つかって賢い仕事してほしい人みんながもっと知識更新して、せめて今よりも論理的に考えられるようになるだけで少しずつ世の中よくなるかもと思うのは楽観的でしょうか? 特にむしろ研究者にならずに博士論文書く人は広い視野やいくらかでもの総合知を有する方向に進めばよいと思うのだがなぁ。ちょっと理知至上主義すぎるでしょうか?もちろん現場で生きるのは勝手に現場の智恵や非認知特性使うのは勝手にやればいいってことでそこ人間に要らないとは全く言ってないですよ、ただ大学の場で非認知特性鍛える必要は別に思わないだけです。

 

ちなみに逃げるようで恐縮ですが、私自身はもう年で認知機能衰えてきていますから多くは期待しないでください。

 

昨日、理事会通りました。幸いです。

2週間

関西での2週間ほどを終えて帰京した。

この間、いろいろあったが、専攻13名中12名の教員には会えて、十分話ができたわけではないが(というかあまり話したくないとおっしゃる先方もいらっしゃるし)、まずは謝った。それで一昨日、木曜日には学長とも面談し、なんとか事は推移し、周囲のご理解というか寛大なご厚意に基づき、手続きも進んでいる。

 

なんのかんのいって、再び新たな環境へ移るのはたいへんではある。前のところも前のとおりではない。それは新たな適応を強いられるやはり新たな環境だ。ずっといて徐々に変化していると気づきにくいかもしれないが、こうしてみれば日本の大学政策、大学をめぐる環境はひどく変動しているもので、いろいろな新たな「取り組み」が求められているし、手間や仕事が増えていることははっきり分かる。全くこんなに教員たちを疲弊させて何をする、何をしたいつもりなのか全く謎ではあるが、官界は財界の無関係だった人が大学で何かしらの役職に入ってきて場合によっては高給を食むということは進んできている。まあ簡単にいって搾取されているわけで、大学という場で宝探し、ちょっとした砂金を見つけては、そのために大々的に地面を掘らせるというのをやらされているようなもので、掘る方にはそれに見合った収入はなく、残業でさせられているといったところか。

 

端的にいって資本主義的、利益獲得至上主義という世界を大学という世界に持ち込むとこんなことが起こるんだとういことですよね。

 

われわれ世代はそろそろ終わりが近いが、これからこの世界に住まい続けることになる若い人には本当にたいへんかと思う。研究的な追い風は全く吹かないから、面倒な仕事だけが増えていき、本業を果たすことがたいへんになる。

 

そういった逆境で考えると、わたしごときが何か文句言うというのはきっと違和感があって専門的にも大学規模としても比較的恵まれた私立大学をめぐってきて、研究にも理解がある法人、事務職員に囲まれて研究を進められる環境にあることは感謝しなくてはならない。その辺特段、現任校と前任校に大きな違いがあるわけではない。むしろかなり規模的にも社会学部としても異なる大学にしては類似点の方が多いだろう。

 

ただ、申し訳ないが精神的にはいよいよほっとしている。何がストレスというわけでもないような気がしていたが、「戻る」ことの方がだんだん嬉しい。そんなバラ色でもないことは分かっているが、それでもほっとしている。

 

大学にしても実家にしても5,6年果たしてきた「義務」的なことから立ち去る後ろめたさもあるが、こうした巡り合わせは偶然要素も含めて起こり得ることだし、いろいろ複雑な感情、気持ちはある。

 

震災の記念館にはグルダイの機会に行ったことがあったが、1月17日あれから初めて東遊園地に行った。なんとなく行かなくてはと思う気持ちがあったのだ。

 

阪神電車に乗って北に六甲山の連峰を見ながら、三宮に向かう。ふと、「神戸にある大学で毎日この電車にのって西向きに通っていたらどうだったろう・・」と思った。もしかしたら東京に戻ろうと思わなかったかもしれないという考えも頭をよぎった。三宮側に来るのは3回目に過ぎない、この6年で。ずぼらだから出勤方向にしか行かず、どこか寄るとしても通勤途上になってしまいがちだ。この山並みを見ながら歩きはしない。

 

西宮では西にも山が見えることに気づいた。もちろん尼崎で山は見えない。だから、こうして自分にとって当たり前の北を見れば山というのは、芦屋以西のことなのだと改めて気づく。生きる環境から被る影響とはどういうものだろう。でも西に通い、北に山を見て、東遊園地でモニュメントや石版を見ながら、いつまでもここに留まっていたら、すぐさま離婚ということもあるかもしれないし、でもそれはそれでよいことのような気もしてしまうから、こうして周囲に多くの迷惑をかけながら、東京に戻ることが自分にとって本当によいのかどうかはあまり自信が持てない。よくないかもしれないけれども、そう決めた、選択したということだ。

 

シラバスは書き終えた。ちょっと一週間は休もうというか、院生指導に力をシフトしよう。結局最大の問題はやはり院生なのだとあらためて思った。2人しかいないけど、ひとりひとり、唯一無二の人生を生きているのだ。20代は二度と来ない。その日々をK大にしろ、どこにしろ、その場で経験して日々を費やしていくのだ。そしてその記憶を永遠に抱えて研究人生を歩んでいくのかもしれない。きっと話すべきなのだろう。遠くからでも今は何でもできると思っていたが、実際、互いに2回ずつ会って、4時間も5時間もしゃべっていたら、「ああ、教員というのは学生・院生と話をしないといけないのだ」となんか痛切に思った。雑談でもいいから、いや雑談にときおり顔を出す心理学的な見方、心理学的な生き方、心理学的な対峙の仕方、結局そんなことの方が具体的な専門知や方法論(それらは書物、論文に書いてある)よりもずっとずっとずっとずっと何かしら大切で、そうした雑談や会話からひとりの人間の芯にとまで言わないでもそこに近い何かが形成されたり、宿されたりするのだ。つぼみの会で鵜養さんから、学科で飯長さんから自分が影響を受けたように・・それは一生自分について回る、重要な自分の構成要素なのだ。正直長時間はこちらも年で辛いが、それは少しずつでも日を重ねて、重ねていかなければならないのだろう。そしてむしろ一番思うとおり、想像のとおりに運んでいないかもしれないことがらは院生をめぐる教育状況かもしれない。(物理的に次年度学部の授業を担当しなくなってしまったという予想外の展開のためもあろう)

 純粋に自腹で自発的に「授業」でもないのに、院生のために関西に来なければならない。1年目はいいにしろ、2年目からはどうなるのだろうか?全く分からない。

 

思えば自分自身が修士途中での佐治先生の退官によってふらふら~っとふらついてしまって、最終的に社会心理に転じる結末を迎えることになったのだった。