zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

実験

自分でやらないといけない実験はあるのだが、まぁそれはともかくとして。

 

今、マイケルと話をして、実験シナリオをいただくことにした。日本でもやってみたい。7月下旬にはマイケルもバケーションを終えて戻るようなので、そのときにちょっと話を詰めて、来年度あたりで日本語翻訳バージョンで試してみるつもりだ。

 

こういう収穫もあってよかった。

 

普段エネルギーに欠けるもんだから、終わりが近くなると、その焦りややむを得なさでちょっと力が増える。

 

責任帰属みたいのだから、他に誰が人を巻き込むか・・・。

 

高田さんはここ見ているのかな?

お引っ越し

いいことないみたいな唄のこと書いて悪かったが、結局いいことはやっぱりあってw、

大家さんが荷物置いといていいということになった。

 

段ボールの蓋も閉まらないきたない洗面器かぶせたものを置いておくのは何だから、基本雑多なものや壊れて困るようなもの(時計、コーヒーメーカー、電気スタンドなど:気前よく寄付するのも最後ならできるけどNYがまだあるんで、車なくて買い物不自由だろうし)は今、研究室に運んできた。

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きれくない写真で恐縮だが、この第3弾で完了した。きちっと鍵のかかるトランク1個だけを3階小屋裏の納戸においてもらうことにした。7月半ばに戻ってから取りに来る。いすにセーターをかけているが(前から)、詰めるより風通しておいた方がいいような厚手のフリースとかはさらしておく。防虫剤を探しても見つけられなかった。研究室はましと信じておく。安いセーターとマフラーしかないが。シダーブロックがあればなぁ。あれ好きなんだけど、前Walmartで探したけどないんだよなぁ。もうお取り寄せのタイミングでもなくなっちゃったし。

 

からだ動かしたから(3度、3階往復しただけだがw、エレベータないので)眠くなってきた。ホント運動と両立は苦手。

 

ちょっと仕事したら帰ろう。

 

 

【お祭り】イベント【わっしょい】

言い訳みたいな補足を書いて恐縮なのだが、わーっつ(うぇいうぇいとはちょっと違うw)と自分からするのは苦手であるが、巻き込まれるのは歓迎みたいに書いた。わりにイベント好きなのである。

 

全く就職する気なかったが、やまほどいろいろ送られてきていた大学学部4年生のときのアンケートに関心のある企業は:東通と書いていたくらいだ。つぼみキャンプだって一種のイベントだし。

 

で、わーってのは人のただのり?しているわけだが、シンポを企画することでいくらか恩返しはしているのではと思う。

 

ふつうどうなのか分からないが、特に0年代ひとけた、すごい数のイベント企画したのだと思う。予算の重点配分で何かシンポとかしなきゃいけない(語弊があるがw)ってのの走りだ。

 

大体学会準備委員を9度しているので十分多いと思うが、学会のときのシンポやWS企画、ハークのイベント、総合研究のイベント、パソ経常のイベント、重なっていたとき、2006年くらいのパソ事務局長から経常委員長に移り、ハークが始まり、にっしん開催控えたころがピークだったかもしれないが、去年は自分で大会やったし、またシンポ企画したし、企画屋としてはかなり能力のある方だと思っている。

 

し、か、し、ただ自分がやるとまじめなんだな。必要な要点だけがあるみたいな感じ。もともとデザイン系を自力で発揮するのは苦手だが、そこに彩りつけようというモチベーションがあまり自分にないので、「お土産にこんなの」とか、「ランチにこんなおいしいこれ」とか、そういうことは得意な人に振っちゃうわけで、プロデューサーとしては仕事の振り分けが仕事だからまさにそれでいいのだが、やはり元々のアイデアにもっと「遊び」があるといいんではないかなぁと、あまりここをまじめに反省しても仕方ないのであるが。

今年のやまがた見てても、まぁ広報段階からかなり遊んでますよね。そういう自由さの思い切りがたぶん自分に欠けているのだと思うが、簡単に言えばそこが内向的ってことなんだろうが、周りからの盛り立てを待つということですよね。

昨年のばあい、イベント企画の王者みたいなサトウ氏の直弟子が来たので、これはすごい助かった。雰囲気づくりってあるからねぇ。「楽しいぞ~!!」って雰囲気をつくって感染させるのは自分にはできない仕事なんで。

 

だからゼミでも盛り上げ担当人員が豊富なときはいいが、みんなが大人しいと困っちゃうよね、2期生はちょっとそういうところがあった。去年は盛り上げのうまいやつもちらほらいたから、あまり心配せずにゼミ合宿をすることができた。

 

秋から居る目的もする目的も変わるから、さてどうなるかだよね。まじめにやるとスゴイ勉強時間が必要ではないかとも怖れているのだが、(悪いけど)ここよりずっと楽しめる感じが強いと思う。

 

ここで、「遠くで汽笛を聞きながら」を唄うと失礼だが、いろんな新たな経験やきれいな風景を味わい、落ち着いた静かな生活できていたので・・・でも、ただ、昔からこの歌好きなんですね。アリスの「レコード」とか持ってましたよね。

 

お祭りが日常の街へ。

ひとりでめしを食う

別の媒体にも出しているが、中華ビュッフェに行った。リーハイに基本居続けるわけだが、アレンタウンは出ちゃって、戻るのはベツレヘムだから一区切りという記念、お祝いの意味もあった。しかし一人祝いとは寂しい!?

 

今回、ある意味人間関係は完全に失敗した。こちらも3,4ヶ月しかいないしという消極モードで始めたもんだから、最初のコンパに「寒いから不参加」(本当は車をどうしたらいいか分からなかった)としたスタート時点での間違いから、悪い軌道の方に行ってしまった。最後8月末に去るときはゴードンに声かけてそれがどうなるか分からないが、なんかunsociable みたいだという雰囲気はていせい(というかまんざらまじ当たっているのだが)の効かぬまま推移して、一人で静かに自分の研究やっていたいのだ(これも今回の目的からすればまんざら外れてもいず、というか的を射ているのだが)という感じで、輪をかけてスタッフの先生方もわりに内向的な方が多いように見受けられる相乗作用もあって、カリフォルニアのときのように、わーっとはならないというか、気風としてわーっとしないのだろう。

 

元来、自分が「ワーっと」の音頭取るのは苦手なたちだから、人が「わーっと」やってくれてるのに巻き込まれているのが好きで、これフリーライダーですがw、家庭のなかでは妻が常に「わーっと」している。(だから結婚したのだろうが)

 

要するに情けない男で、20年前だって考えればわーっとした妻力でもって人間関係切り回していたので、ダイアンだって妻が大好きだったし、バーベキューやれば社交的、鉄道園やフェスタやスーパーでさえもすぐに友だちをつくってしまい盛り上がっている。わたしは横で呆然って感じですよね。もちろん教会での社交は今日本でもまさにそうなのだが、妻主体であり、みんな妻に話しかける。わたしはあれはどうやらあの人の夫らしいという認識である。

 

昔から一人でいて平気なタチでもあるので、だからどうってことはないし、妻のような社交人間になりたいかというと、別になりたくない。

 

しかしこのフリーライダー人生、黙っていてもいろいろな人がいて、ふつう何かが起こって何かはあるのだ。これまでの人生ずっと。だが、書いたようにこの間、ランチに乗り遅れて、どうも・・・・ここでは「何も起こらない」  研究上はジルに話そうと言われていて今準備中なのだけど、パーティってもんないんですか??みたいな感じ。

 

20年前、同じ3月来るなりデイブの家に招かれてみんなでアメフト見て、ワーっと、その1週間も経たないうちにサンタバーバラ日本人会のバーベキュー(そこで日本語教会があることを知る)、NGY大のT先生と最初に逢ったのはそのときだ。で、トークの後、ばーっとメキシカンとか、そんでバーベキューとか。

 

ここでホームパーティは、教会関係でイースターしただけだよな。

 

ということで、ひとりで食事するのであった。

 

さて、ここではかなりの肉のかたまりがあるし、海老とかかにとかの魚介類もある。で、ひらめみたいの(わからないが)ムニエルっぽいものもあり(あまり中華でない)、その他中華の牛肉ブロッコリーとか鶏からとかはいろいろたくさんあり、また普通にグラタン、ピザもあり、スープも三種類、生野菜、ポテトサラダなどの各種サラダもある。

 

日本の食材環境で見ると高そうなものもいろいろあり、こちらでは安いのかもしれないが、そんなこんないろいろ選択肢があって(もちろんデザートやフルーツもいろいろある)、10ドルだから安いんだな。

 

11時開店で11時9分に入ったから冷めたりしていないし、また、その場で目の前で鉄板で焼いてもくれるので熱々も可能だ(わたしは熱々は食べられない、少し冷ましてから)。よく日本食レストランで料理人がやる鉄板コテパフォーマンスの片鱗みたいなのだけ少し演じていたが、こちらはそんなことよりちゃんと焼いてくれたらよい。ソースは7種類くらいから選べる。とりあえず無難にテリヤキにしておいた。

 

寿司もうまかった。カリフォルニアロールは好物だ。もともと日本にいるときから、生々しいものはあまり好きではないので、寿司だってしめさばとか、穴子(蒸したの)、ツナ巻き、ネギトロくらいが一番好きなシリーズで、あとはカンパチとか平目とか関西人ですから白さかなモードですね。通風の危険があるので、貝類は一切食べないし、かに、いくら、たこ、いかなどプリン体多い系は、元々そう「食べたい!! 」というスゴイ強い欲求のある対象ではないので(出れば喜んで楽しく食べるが)、ないならないで結構。

 

サーモンわりと好きなので、それなりにとって、あと巻き系をとって満足。

 

いやぁ堪能できました。

 

で、これは違反じゃないかと思うのだが、無償かもだが、店員のどうやら息子というか店のオーナーかマネージャーか?の息子か、小学生くらいの子どもに最初案内されたのだが、レジでもクレジットを扱っていて驚いた。ただ、2回やってアメックスが通らなく、本当に通っていないのかどうかも心配だったか、結局現金払いした。あれは特にアメリカ的にはやばいのではないか。

 

ということで基本ひとりで仕事をし、洗濯し、食事して生きているが、大学3年くらいの一瞬に戻ったかくらいの感じか。変な話して恐縮だが、一時期以外は大体、常に彼女さんにつくってもらって飯食ってたことが多いので、全くの独り身でいるということが人生上(志向性とは異なり)ほとんどなく、院生の間に早々と結婚しちまったもんだから、いわゆる自由な独身暮らしには慣れていないのだ。新鮮で超自由でひとりでは楽しさをフフフフフと満喫できるのだが、周りからすると寂しい感じに見えるかもなぁ。

 

巻き込まれるイベントの超少なさにおいては、寂しいというよりも「物足りない」って感じだけど、ひとりで時間使って生きること自体は何の問題もなく楽しくできることが判明した。なぜにこれを早々と捨てて結婚したか分からないが、からだが元気な限りは死別してひとりになっても大丈夫だと思った。

 

 

車と荷物の振り返り(雑)

研究室に来ている。荷物第2弾を運んだからだ   ってだけではないがもちろん。

 

部屋の片付け、研究室もチェックしていると、昔(といっても3月、4月だが)のレンタカーの明細が出てくる。3月26日にラガーディアに到着したのだが夜で(いきなり雨が降っていて、寒くてタクシーならんできつかったなぁ)、近辺のホテルに泊まり翌日3月27日にAvisでレンタカー借りてる。なんと30日返却だ。で、30日にLehigh Valley 空港で今度はAlamoでより安く借りているのだが、4月3日返却だ。4日のレンタル。あほうだ! 一週間だと却って安くなるのに、わざわざ高いように4日レンタルなんて!

 

当時は1日いくらという発想しかなく、なるべく早く返そう、返そうと思っていたのだな。

 

泊まっている宿泊場所が大学に5分で歩いていける場所なもんだから、アパートもそんな感じなら車いらないかもとか思っていたし、前に書いたように、基本「購入」しようと思っていたから。もうすぐにでも決断さえすれば購入できると思っていたのだな。

で、中古屋に行って、IDカードか免許要りますと言われ、もちろん免許取るつもりだったから、このブログを始めた頃の迷路にはまり込んでしまうわけだ。

 

しかし、初めからせめて一週間単位でというか、2週間くらいで借りておけば節約できたろうにと思いつつ、既に懐かしくalamoの明細を見るのであった。

 

確かに買っちゃうとヨーロッパの学会に行ってる間どうすんだってこともあるが、バカンス向きに長期契約で空港の駐車場においておく手などがある。そう考えれば、さっとIDカードの方を取得して買っちゃった方が確かに安かったと思う。

 

なぜなら、今の3ヶ月くらいのレンタル契約以外に、ヨーロッパから帰ってきたときを思案して結局レンタカーを使いそうだからだ。そんなに使うなら。。。

 

当初は自分で8月あたりどこにいるか分からなかったし、そんなテキトーな計画で場当たり的に(うちの家族状況だと必ずそうなる)動くのもなんだが、家族がいつ夏休みとれるか、いつ来るか、それでそれはどこかに旅行に行くか(バカンスで南米とか、カリブとか)、いろいろな果てしない構想可能性を考えていたので、ここまで夏休みひとりで放り出されるとは思わなかったのだ。

 

NE大で夏も実験やっているOさんはめっちゃエライし、助手までついてすごい有意義だが、もともとそこまで働くつもりもなかったし。(ネット実験、調査で済むので、からだを動かすことは今回自分では考えていない)

 

だから結局まじめに学習するためにヨーロッパ学会めぐりになってしまった。とうていバカンスとは言えない。しかも戻ってくるのはこのベツレヘムだ。そうでなければ車のいらない街で夏もより涼しい??トロントとか、選択肢もあるわけだが、ビザの関係で簡単にはいかない。

 

どうせやることは、ベッドの上で文献読んだり、デスクに向かって書いたりするだけなんだから、どこでもできる。ホント20年前と比べて身軽。Kindleダウンロードとか読みやすいし。

 

さて、そういう文明の利器もあるので、少しだけ増えた本もいちいち持ち歩く必要はないので、本日第2弾では主に書籍や打ち出し論文、ひとの修論とかそういう研究上必要な紙類(大学の書類含む)をStaplesで買ってきた小型段ボールに入れて研究室に運び込んだ。小型で正解。本は重いから。

 

あと残すは3日はだからたぶんもう使わないチリソースと辛いピクルスも一応捨てずに今運んだ。思い物シリーズ。他の物と一緒にして万一割れたら被害甚大系。たぶんベツレヘム帰還後はホテルに持参、移動してその後に残れば捨てる予定。

 

当座ある意味まだベツレヘムに居続けモードなので、そう完全に片付けようとは思わなくなった。トマトの缶詰も持ってきた。缶詰やカップヌードルは残ってもOK。

 

運ぶ段になってやはり車がバンというかSUVとの中間みたいのだけど、荷物の積めるのでよかったと思う。今回は分散的にちょっとずつ運べるが(もしかしてあと1回だけで残りは全部一気にやるかもだが)、Weehoken行く時に場合はまともなそれに適した車ないとたいへんだ。小型トラックにするほどではないが。若い頃は日本でよく引っ越しのとき、自分のでも人の引っ越しの手伝いでも小型トラック借りたり、ホームセンターからの借り出しの短時間でばーっとついでに運んだりやったもんだが、そんな量は全くないので段ボール4箱とトランク2個ってところだ。あ、最終的にそれからプリンターか。研究室を追い出されるから、8月中旬にはいっとき倉庫を借りる予定でいる。Gordonがちょっと自分のところに置いといていいよと言ってくれたが、ちょっとじゃないからまぁビジネスライクに済ます。

 

場合によっては今の住居を延長して引き延ばせないかなとも思ったが、改装予定という話で仕方ない。カーペットを替えちゃうらしい。それにもう不在が長いということを決めちゃったので、いくらなんでも鍵なしの部屋に長期間いろんなものを置いておくのも何だ。客の下宿人は短期間に変わるし、どんな人物が来るかわからないのが、その気があれば出入り自由で、日中大家さんは最近不在がちだから、まぁ不用心だ。単に動くときPC2台持って行くのがいやなだけだが。iPadも普段はminiだけ持ち歩いて、Proは部屋に置きっぱなしにしてる。

 

かなりくだらない雑談になってしまった。

 

やはりペンシルベニア内だと、どうも車は必需品であり、ないとかなり不自由だと振り返ってよくわかる。バスで通っている学生はいるが、買い物とかやはりないと不自由だ。大体車があること前提の売り方(パッケージの量とか)が多い。 だが、効率的、効果的な車の入手方法はもっと検討の余地はあったなということ。

AI

さて、先の話にもつながることにAI、人工知能というものがある。

自分がこの分野よくわかっているわけではないが、全くの素人よりはましである。いくつか書籍も読んでいるし、学会に参加したこともある。息子はまさにそこをやっている情報系だ。日々何をしているかも見ていた。

 

よく言われているけれど、日本は遅れている。この10-20年の世界の技術的進歩、変化で顕著なのがコンピュータと情報通信に関わる分野であることは異論のないことかと思うが、ただ、各国においてずいぶんスタンスが異なるのは確かである。

 

インターネットを用いたあれやこれやで先進的な試みを果たし、ほぼ業界を牛耳っているのはご承知のようにアメリカであるが、スタンドアローンにしろネットにつながるにしろ、人工知能研究においても甚だしい差がある。これは日本で文科省などが計画的に予算を投入しなった点がひびいている。日本の研究は情報産業などの企業が面倒をみてくれる研究資金にも大きく依存している。もちろんいくつか大型予算をとってやっているものもあるが、シリコンバレーを見れば分かるように、少ない数か所に重点予算配分するというやり方はそもそもこの分野に必ずしも十分有効ではなく、小所帯のベンチャーが革新的な道を開くことがしばしばあるからだ。それも顕著に。

 

こういう小さな試みに莫大ではない、ちょっとした予算を与えれば「できていたかもしれない」ことを、ある意味日本では確信犯的に見殺し、野ざらしにしてきた20年である。

で、差は拡大した。社会の変化を見通す戦略眼が日本政府はないし、企業でも弱いからだ。

 

で、別にそういうことがいいたいわけでなく、例のごとき、心理学者であるから一般に人の偏見とか、AIイメージの方が気になる。

 

日本人の科学音痴の話はあちこちでしてきているし、その理由もいろいろ語っているが、コンピューター、人工知能に関わる変な「警戒心」みたいなものは非常に社会心理学的には興味深い研究対象だと思う。誰かちゃんとやってほしい。ものの言い方は悪くてポリティカリにコレクトが好きな人は眉をひそめるかもしれないが、あえて例えれば、土人が声の出るラジオを始めてみて恐怖に駆られて壊しているみたいなイメージ。 まぁ基本思想界では「日本人=土人説」というのが浅田の頃からあって、基本的にわたしはそれは正しい認識だと思っている。つまり日本は近代をさえ迎えていない。心理的にはアニミズムシャーマニズムのままだし、法や人権や政府というものをきちんと分かっていない社会だからだ。ちょっと考えれば誰もうなずく明白な事実だろう。

 

さて、日本土人はだから機械が怖いし、機械に支配されるような世界を怖れている。アニミズムだから機械にも魂をみちゃうからだ。機械をすぐに人格化してみちゃう。だから機械がウォーっと支配欲に駆られて人間を牛耳ってしまうというイメージ。ばかばかしいにもほどがある。

 

ふだんからせめてニュートンとか読んでればいいのだが、科学誌はぐんぐん落ちぶれて廃刊していったし、なかなか難しい。ときおりNHKが良質な番組をつくることがあるが、それに輪をかけて、砂丘の霊とかそんな話ばかりだ。

 

コンピュータなんかは今のところ基本的に電力でしか動かないので、警戒するなら電力管理すればいいだけだ。一定以上の電力振り分けには関与できないようにして、制限をきればいい。それを乗り越えるのはSFだけの話だ。回線が落ちるようにしておけばどうしようもない(将来電気は空中を飛ぶが、入口を遮断できる)。

 

そうすれば、もし仮に仮に、電磁波だけで人間の脳に直接、外的に働きかけができるようになったとしても(今ほぼできる、接触型だけど)、一定以上できないようにできる。もちろんそもそもそういう仕掛けをつくろうという動機づけがないからそうした設計がなされないだろう。

 

もっと今の現実的なところに戻れば、「人工知能」は現時点でそれほど素晴らしくないし、しょせん「相談相手」なだけだ。手際よく上手に情報をまとめてくれる優秀な助手ないし、秘書がいて、それをもとに意思決定する。つまり「決定支援ツール」だ。そういう研究はいっぱい今ある。人間の意思決定をシミュレートする研究だって大事なこと全部を任せっぱなしにするのではなく、全部決定支援の話だ。

 

部屋の温度設定なんて今でもサーモスタットがやっているけど、ノールック家電なんてそこから毛の生えたようなものだ。便利と感じるか迷惑と思うか人それぞれと思うが。

 

政治への一番簡単な導入方法は選挙区の区割りだ。政治家が自分の選出基盤を議論して決められるはずがない。こういうのこそ外注すべきだ。法律つくってAIにやらせればいい。もっともこんな簡単なものはAIも不要で、普通にアルゴリズム書いて学部生でもできる簡単なコードで選挙区割りなんかできちゃう。2日あればできるのではないか。さっさと全員それに従えばいい。事情なんて関係ない。一人一票の基本的人権にかかわる重大事項だからだ(特に衆議院)。

 

だから、他の予算の重要な配分とか、社会保障のシミュレートをたくさんやって、コストベネフィット示しながらメニューを出せばいい。官僚たちが長い時間をかけて、報告書みたいにまとめているものがさっとできる。官僚はプログラミングに対してそれを助言する、つまり必要な変数の指摘と意味みたいな。

 

それで世間の間違いはコンピュータだと一律のひとつの簡単な解答しか用意できないとの思い込み。そんなんならとうてい人間の能力越えようもないでしょう。これは政治が今のところ意思決定しないと仕方ないが地方分権のあり方。権利さえ認められれば自治体ごとに選択がまったく違ってもいい。制度を複雑にしたら「たいへんだ」と思うのは、人間だけだから、国レベルで一律化する必要もないし、それぞれの自治体にあったように出力を出せばいい。コンピュータこそが複雑でまちまちな地方分権を支えられるのだ。極端な話、税制が違ってもいい。国税庁の役人がいちいちそろばんはじく必要ないのだから。「税制が違う」というと語弊があるかもしれないが、自治体によって複雑な条件分けがあっていいということで、今だって青色申告がそもそも「存在する」ということ自体恣意的なわけで、複数の税制があるようなものだ。心理統計的に言えば、調整変数のある複雑なモデルをコンピュータは簡単に用意できますよということ。しかも必要があれば自動的にリアルタイムに変動できる。変動しなくてもいい。どっちもできるし、変動させる時期を年単位にするかどうかも自在だ。だから自動的に税率を変化させることだって(法が許せば)簡単だ。

 

成果のパフォーマンスさえ定義できれば、働く者の年俸の設定の自動化だってできる。教員なんかの場合、そのパフォーマンスの定義自体が難しいが、論文書くことで優遇されることは強く反対される根拠はない。分野ごとの微調整はあっていい。

 

機械なんて所詮、電源落とせば止められるという基本的なことをみんな忘れているのではないか。むしろ地震や停電であっさり止まったりしない安全策を考える方がずっと重要だ。わたしは分散型の方がいいと思うが、もしでっかい「マザー」みたいのがあったら、高度大気上で核爆発されて、電気回路がぶっとびまくるような事態でも影響受けない深度地下においておくとかね。分散マシンもそれぞれ適当な地下の方がいいと思うけど、日本は地震があるから、埋めれば「絶対」ということではないよね、そこからマグマが噴出さないとも限らないから。やはり強いのは分散ですよね。当然人工衛星にも置いといていいし。

 

こういう政策支援マシン(すぐ今できるものについては)でないようなロボット君みたいなのは遊びみたいなもんだから、趣味やQOL上昇に役立つ分にはてきとーに導入すればいい。日本では人工知能というとすぐにアトムみたいなロボット君を思い浮かべるという阿呆が多いけど、社会的重大性に鑑みればそれほど致命的に大きい分野ではない。阿呆が阿呆なことまでやらせようとすると事故ると思うけど。散歩支援とか無理だよね。これは人工知能学事典の方に書きました。

いったいいつ出版刊行されるのか・・・!?

 

人工知能は怖くない。神でも悪魔でもない。

知的なレベル

それで、むしろ問題なのは大体こういったところで話が止まっちゃうことだ。メディアが嘆かわしいとか、日本人の非理性的な点とか山ほどの言説があるし、それくらいはちらちらとワイドショーでも触れられることがある。

 

テレ朝の報道ステーションに招かれるリベラル言論人でもときどきそういった方向で話をして、要するに結論は「国民の自覚を高めよう」そのためにこういった「報道番組は一所懸命啓蒙すべきだ」ということに尽きる。

 

で、何も動かなくて、40-50年経っているだろうか。

 

だったら、実証科学としては冷静にもっと分析したらどうか。アメリカでも結局そうなのだろうが「国民全員が理知的であるのは不可能である」と。

 

とりわけ日本のことに絞るが、論理的な回路から「正しい」ことを訴えても効かない。これは最近私が東大の40周年やら何やらで機会があれば主張していることである。(心理領域ではそんな論文書けないから論文化がうまくできないが)

ただ、政治的メッセージのフレーム研究なんてのはあって、情緒に訴えかけるものが効きやすいとかの成果がある。結局わたしが昔やっていたポジティブ気分はヒューリスティック処理って要するにこのことだし、私が含意していたのはまさにそういった事態だ。みんな日常がんばってポジティブにいようとするし、放っておいてもポジティブな人もいるが、それは引き換えにシステマティック処理を遠ざけることになる。「楽しい」テレビにシステマティック処理は似合わない。

 

さて、だったらもうちょっと議論を進めた方がいいのではないか。大学の教授会や雑談でもこういった啓蒙派というかリベラル知識人が多いわけだが、もっと有効で現実的な取り組みはないのか、考える気はないのか・・・ってことですね。

 

啓蒙は高みに立ってものをいう、「教員」という存在様式に実にぴったり合うからそこで満足して止まってしまいがちなのかもしれない。

 

国民の大多数がそもそも熟慮しないとしたら、どういう社会設計ができるか。ひとつのヒントを与えているのは、あずまんの「一般意志2.0」だ。みんなこれくらいは前提にして議論すればいいのに、文系の大学教員のくせに読んでいない者が実に多く、そういった知の到達点を無視して、くだらない議論にあけくれて、世間を憂いている。知識水準が低いのは国民だけでなく、実のところ大学教員自体もそうなのだ。今は特に低偏差値でも大学院があるし、ひょんなことからそこから大学教員になる人もいる。自分の専門領域についてはかろうじて教授することができるかもしれないが、そういう人は往々にして(なかにはスゴイ人もいたりするのだが)知識の領域が狭く、また分厚くなく、思考の深さも浅いものだから、表層的な心理学研究が一体何によって支えられているのか、それがどういった社会的な効果(特にマイナスの効果)をもたらすか考えたことすらないという程度の者もいよう。実に浅い授業しか展開できないわけだ。

 

ここで啓蒙主義を主張するのではない。「それが現実である」ことが大事だ。つまり知の専門家らしく世間的には見える大学教授でさえ、知が低いのである。本人のせいだけではない、知が膨大に広がり、専門分化していった現代においてすべてに通じることはあり得ない(だから有効にそれぞれの専門家の意見をきちんと訊ね、参照する姿勢が重要なのだが)。SNSだって優秀な学者が自分の専門領域以外ですごいバカなことを言っているのは日常風景だ。育児や教育など特にそうだが。つまり正確には現代とは、「賢い者」と「バカな者」がいるのではなくて、同じ人物が「時に賢く」「時にバカ」になるシステムなのだ。2.0にはそういうことも書かれている。

 

今やネトウヨやいろんなばかげた言説や信念をぶつけまくる光景はツイッターとかで顕著であるし、これは話し合えば理解し合えていつか結論が導けるという日本人の好きな「話し合い絶対主義」を打ち壊している。もとから「対話しよう」「人の話を聴こう」などという姿勢をはなからもたない確信犯がことばだけ垂れ流しているのだから。

 

それを馴化させたり啓蒙したりすることは無理です。無理から出発しないと。

 

だから互いの信念をすり合わせて、結論を見出す様式は無理である。無効である。それこそが民主主義だと思い込んでいる人もいるのだが、想像力が足りない。どうしたら民主主義、国民主権を保ちながら、無理な話し合いを避けるか。

 

2.0では簡単に述べれば理知の部分は私的領域に、感情の部分をむしろ公的領域へとの逆転戦略を認め、感情の部分をグーグル的ネット技術でベクトル的に集約すればいいと考えている。ビッグデータの活用である。古い本だからそれ以上は具体的に書かれていないが、今の技術なら見通しが立つ。いい感じ、いやな感じみたいな情動的反応を集約するのは容易だ。人工知能ではすでに人の理知的な部分よりも感情的な部分の方がシミュするのが楽だと分かってしまっている。感情はわりに簡単なんだ。

 

ただ、2.0の限界というか批判を要するところは、その「集約」(単なる総計ではない)を行政や政治家が参照して、熟議も生かしつつコントロールをという無意識を意識の光で照らしてコントロールを回復して治癒するフロイトをひいて説明しているところだ。無意識と意識のバランス、相互作用、制御は今、心理がでホットな話題だが、簡単でないから議論される。そのコントロールに邪念や悪い意思が働いたら終わりじゃないか。どうしてそのときの「政治家」が今より信用できるのか。

 

いずれにしても人間の半分理知的というか「認知」に属する信念みたいなところの集約は諦める、それは相対化されるしかないと理解して放棄する。おもしろいアイデアだと思う。いつまでも対話可能、相互理解可能、そして集約可能、あるいは多様性の尊重で済む(テロに対してどうするのか? 多様性を尊重して殺されるのか?)わけでなさそうな今の現実の社会、あるいはもしかしたら人間の本質というところから考えると、人間の認知、理知、理性から離れた「外部」に政策方向決定の自動的人工知能的システムを導入する(これですますことに東は反対している)ことを一度やってみたらどうだろう。そして一旦社会を進めてみて、今も噴出してる矛盾がそのときはそのときなりに別の問題が噴出して、また直していけばいい。まずは、「わたしたちの個別的な思考」(人権と個人主義からもたらされた発想だ)によって統治形態が基礎づけられるという発想を一旦捨ててみてどうなるかやってみた方がいい。  と思う。