zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

ちょっと危険なこと

北朝鮮。アメリカもそう暇でもないし、イラン問題とかやっといてあちこち同時にしかけるのは無理だとして。

 

仮にアメリカの大統領が(トランプさんがどうだかよく分からないけれど)、狡猾、怜悧だったらこういうことになりますよね。

 

日本の首相に電話

大統領:もう北朝鮮許せないよね

首相:そうだ

大統領:で、頃合い見て戦端開こうと思うんだよね。

首相:そうですか!ついに(ワクワク)。

大統領:もちろん向こうのせいにしたいからさ、船来そうな

あたりにうろついておいて、さ

首相: 海上保安庁とですが、海上自衛隊ですか

大統領:(アホか)まぁとりあえず保安庁でいいんじゃん

首相:で、警察権限使うんですね

大統領:ちょっとおおげさにやるといいよ。それでそのあとは、海上自衛隊に警戒、警備させるといい。

首相:それで

大統領:ほどなく、こぜり合いが始まるから、そのとき防衛として2、3発ぶっ放して、向こうの兵士を殺せ。

首相: こっちが戦端開いてませんか?

大統領: 大丈夫お前らも何人か撃たれるから、あっちが先とか言っておけばいい。それであとはこっちが大掛かりに隠れている拠点に突入してやつを仕留めるから、任せておけ。

 

ところが戦端開いて、3日後、アメリカが「準備~」とか言って何もしてこない間に、青森か新潟に2,3発ミサイルが撃ち込まれて数千人殺られます。種類によって下手したら?万人被害とかも。

 

そこで、日本(ないしは韓国)に実被害が明確に出て、国際世論の後押しを得る中で、本格的に北朝鮮攻撃をします。もちろん戦中、韓国、日本に多大な被害が及びます。多大な被害が出ても、あれだけのことを北朝鮮が撃ってきたらそれをどうにか対処せざるを得ない局面になったからだと言い訳ができます。

 

で、アメリカ本土に本格的な核兵器が確実に飛ばせるように明確になる前にアメリカは東アジアの被害を踏み台に北朝鮮体制を破壊することができます。(終)

 

万一戦争になったら自民党政権じゃないと戦争遂行が心配だと考える向きもあるようですけれども、

・・・たきつけてこういったシナリオに迂闊に乗っちゃう可能性が高いのはいわずもがな今、日本中で一番そのはまり役なのはAbeという人だと評価できますよね。そういった点ではアメリカにとってもっとも利用価値が高いです(本気で北鮮とやる気あるならね)。もしかして将来仮に首相が小池でも同じことになるかもですが。ちょっと地理的に無理っぽい想定で工作するなら韓国の方に・・という感がなきにしもあらずですけど、想像を超えるやり方で先に韓国や日本に被害を出させてからという可能性はあるかもですよね。

 

そうすると、容易に焚き付けられない人物、示唆などのことの裏をよく検討できるようにしておいた方がいいのではないかと思いますよね。その際に潜在的・顕在的に実際戦争したがっているかどうかは重要な促進・抑制要因になるかと思います。

 

ところで戦争は当たり前ですが、「手段」です。外国人を殺したい欲求があるからそれを満たすために外国に撃ってでるということは今時とても考えられないし、まぁめったにやることではないでしょう。ふつう外交交渉ではどうにもならない案件があり、力に訴えるしかないから戦争になるんですよね。

 

戦争は手段。でも、恐ろしいことに「手段」と思う人には昔から2通りあって・・

1.勝ってこちらの要求を通したい(それを通して自身の立場を強くするとか、世論から喝采を浴びるとかそれも含めて)

2.武器を売って儲けたい

 

今、世界の多くは資本主義的経済で回っていますから、資本増殖の欲望で2番も無視できないものですよね。もちろんアメリカでは武器産業が政治献金しますし。

 

1は勝ち方を考えます。そして「目的」がありますからどう閉じるか、どういう条件が得られそうになったらどう店じまいするかも考えます。

 

2は、勝敗関係ありません。もちろん自分の店、本社が爆破されると困りますが、そうでない限り、だらだら続く方がよけいに儲かりますし、ひどい場合は両陣営に売りますから、終わり方を考える必要がありません。

 

だから、事は簡単です。終わり方を考えないで戦争したがる人がいたら2です。1は終わり方、うまい勝ち方、ちょっと勝ったところで引き上げるやり方を考えるはずです。日本の多くのTV視聴者は昨今の真田丸で戦いのそういう本質を真田さんから教えてもらいませんでしたか?

 

でも実は世の中には変な人もいて、まじめに考えるべきかどうかも分からないのですが、1・2以外が存在するのですよね。

「戦争ごっこをしたいガキ」

自分が大司令官や将軍などの役割をバーチャルにとることに気が済まずリアルにやってみたい! でもって、国家の責任者として、3千人の国民の死者、5人(一番最初)の自衛隊の死者を前にして悼んで弔辞を読む自分に酔いしれるということです(日本戦後史論でも指摘されていますね)。こういうのが一番危険なのは言うまでもありません。特に後者の行為を行うに当たっては、「勝っても負けても」いいんですからね。犠牲者が出るのを待ち望みさえしているわけですよね。

 

「負けても構わないと思っている司令官」 

  これほど、リアルに恐怖なことはないのではないでしょうか。

 

 

「あたたかさ」は誰のもの?

ハイトのモラル基盤の話でいえば、リベラルは、ケアと公正だけ。そして保守側がそれに加えて仲間意識(忠誠)、権威、清浄を基盤とする。基盤の広さが保守に有利に働き、いまひとつリベラルが伸びきれない。これがハイトの分析だ。

 

保守は家族のつながりの大切さやそうした伝統的な人とのつながりの大切さを訴え、前の記事で記したように、選挙などでもそれを利用して、地域のボス、人とのつながり、冠婚葬祭的つながりをてこに支持基盤を盤石にしていく。地方では今でもかなりそうだ。

 

リベラルや革新系は正しいことを言うから基盤はそういった理屈になる。理が立つと、ステレオタイプ内容モデルでは、理と情が逆相関するから情が薄いように見られ、味気なく殺伐とする感じがする。これが理の辛いところだ。

 

でも「保守」の小池は、冷たさを表出してわざわざ自ら「あたたかさ」の資産をどぶに捨てた。

それを拾ったのは枝野だ。

今回非常に興味深い、また印象深いのは、枝野さんが、

 

「保守から〈情〉を奪った」

 

あたたかさ軸を自分の方に引き寄せて、ものにした点である。人徳なんだろう。

 

あたたかさを有するリベラル。これが大切なのではないでしょうか。

 

自民党側の「忠誠」はあまりに狭い人の間での「つながり」に堕してしまった。もっと広げた人とのつながりがなければ世の中はうまく回らない。

 

サンフランシスコ講和条約を軽んじるといずれ安倍さんの足元は掘り崩されるだろう。アメリカは別に安倍を友達と思っているわけではない。たとえもしこの選挙を自民党が勝ったとしても、ヤバいことになる前に何かが起こるかもしれない。

 

北朝鮮と日本は対立している。しかし、アメリカ人から見ればこれは同じ顔だ。みんな日本は宣戦布告もせずにずるいことに真珠湾攻撃をいきなりしてきたと単純に考えている。ここニュージャージーにもリメンバーパールハーバーの記念碑が立っている。日本人は何を考えているかわからない。放ったらかしておいたら、いつか日本が北朝鮮と同じような国になるかもしれない。また国連を蹴って立って核武装するかもしれない。アメリカはまじめに冷静に現実的にそういう点も見ている。トランプだけは冷静でないけど。

 

日本が北朝鮮と同じになれる仕組みが用意されるとしたら、当然そこで打ちこわし工作が行われるだろう。対米追従が下命されている自民党がやり過ぎたとき、それはアメリカが安倍さんを見放すときであってそれはもう始まっているのではないか。

偉い人と立派な人

上に立つ人とはどんな人でしょうか?

 

これは質問自体がいくぶん土人的です。土人国民主権を有用に用いませんから、単なる自分たちの代理、ある意味では下僕として仕える政治家を選んでやるという意識を持つのが難しいです。

 

すると、「議員さん」を選ぶのは、大昔からの心性と同じで、たいてい議員さんとは偉い人、偉い人がなるもんと、思っています。

 

昭和的かもしれませんが、子どもの頃、自分より(家父長的に)偉い父親が頭を下げる庄屋さんみたいな人がいて、その庄屋さんがさらに頭を下げる議員さんがいたら、議員さんは偉い人と思うでしょう。

偉い人の善政にすがるみたいな心性でいれば、偉い人はちびっと偉い人が紹介してくれる。だから、庄屋さんがこの人に投票したらよいといえば、みんなそれに従って投票する。もちろん村やその地方の実利があると説得されることもある。そういった顔役は冠婚葬祭の行事に顔を出し、顔を売る。

 

さて偉い人は立派な人とは限りません。単に偉ぶっているだけの人かもしれません。立派というのもあいまいなので、ちょっと筋をずらして合理的に尊敬を受ける人としましょうか。立派な会社に就職して「一人前」になって故郷に帰ると「君も立派になったねぇ」と言われます。昔ながらにとりわけ男性が伝統的性役割観的に「正しく」「よい」会社に就職すれば故郷に錦を飾り、ほめたたえられるわけです。時代の制約を受けますが環境適応的には「合理的」でしょう。だから本当のことを言えば一見合理的だからと言って正しいとは限りません。

 

そもそも心理学者はその点意地が悪いので(ちゃんと言えば懐疑的なので)、「正しい」ということばはたいてい正しさがないときに使います。正当世界仮説とかですね。実は正当でないことが分かっているから敢えて正当という幻想を語っているわけです。皮肉ですねぇ。

だから「正当化」ということばはたいてい「本当は正当でないものを無理やりごまかしてしまう」ことを言います。でも本当に信じている人からすればそれは正しく思える。まぁでも正義ってそういう側面がありますよね。だから正義同士闘う戦争が起こるわけです。

 

でもある正義を信じる者はまじめに信じています。近代的には本来の正義というのは合理的に正しいことですよね。数式で証明できるとかが一番いいですけど、なかなかそうはいかないから、代理のひとつとして功利主義的な正しさがあります。しかし、功利主義はいまひとつ人気を獲得しないので、ときどきカント的な正しさがもたげてくるわけです。

 

正義に準じる!!と言えば、日本ではなんか武張っていますよね。まぁ別に謙信ではなくても、戦国武将だって自国領土における功利主義的な正義ではコスト少なく他国領地を分捕れれば利得が非常に大きいわけですから、誰も止めたり、裁定する者がなければ力で奪います。本来は裁定する者が一番正義を体現しないといけないわけですが、幕府は弱体化するわけです。

 

そういえば、そもそも政治、幕府って何かといえば、利害の調停ですよね。大昔から起こる政府機能としてはこの利害の調停が大きかった。とりわけ土地問題が力づくでなるように世知辛くなってくると、なかなか簡単にことがすみません。

 

正義を機能させるには自分が正しい身じまいしないといけない。わりにこのことをよくわかっていたのが北条家の人ですよね。正しさによって権力を維持しないといけない。なぜなら彼らには十分な正統性がなかったからです。正統にはこれは歴史的妥当性が本来必要ですから、天皇家に比較的近くつながるとか、「名門」でないといけないわけですよね。しかし、彼らは(武士団)は、自らその長、将軍である将軍家を破壊しました。血統だけ「尊い」貴種からお飾りの将軍をもってきますが、単に最初、そこの妻、父、義弟に過ぎなかった血のつながっていない親族です。実朝が亡くなればもうそのなけなしの正統性っぽいものもなくなりますものね。

 

歴史の重みから言えば、正統>正当 ですから、正統には叶わないけど(結局足利に滅ぼされる)、せめて正当性を持ちたかった。この理屈を高時や長崎らは忘れてしまったのでしょうね。

 

それよりも古い正統はもちろん藤原摂関家です。西園寺公望とか近衛文麿とか細川護熙とかですね。むかしは天皇が偉く、藤原家が賢かったので、律令的な正しさを藤原家は独占しようとしましたが、すぐに堕落してしまいます。どうも日本は正義とは相性が悪いようですね。能力主義の叙任を始めようとしてもすぐ縁故主義に戻ってしまいます。しまいに血統固定です。正しく物事を運ぶにはエネルギーが相当いるんですね。

 

だからレベルが落ちて、貴族が単に「偉い人」になってしまうと「正しさ」「正義」を謳う武士が現れて、自分たちの式目とかつくって、正しい裁きを自分たちで行いたいと思うようになるわけですよね。

 

でもやがてそれも単なる偉い人に堕落して・・・の繰り返しです。時に正しく立派そうに見える人が貴族層に復活して現れて人気を呼ぶこともありますよね、なんたって根本的に正統性がありますからね。近代化していない世界では、そうした正統性は大事がられます。個人より「家」ですもんね。だから村でも代々、なんとか家の人が村長や今じゃ県会議員とかになっちゃったりする。

 

いまじゃほとんど貴族と武家の区別はつきませんが、普遍的に権威と武威というのは世界にもあったりして、そのいずれかに正しさがくっついたり、近代的にはただ「正しい」だけでがんばったりするわけですね。

 

ということで、血筋の権威があるか、武張っているか、あるいは近代的に頭のよさ、合理的かつ穏当な在り方で売るかという戦略になります。あるいはこれを贅沢に合わせ技するとかですね。

 

日本の統治の仕組みから考えれば、宏池会がお公家集団と言われたのも尤もなことです。現実に貴族がいなければ、貴族って律令的には行政官ですから、要するに国家を運営する行政部隊ですよね。それは今では官僚のことですから、官僚出身者が多かった宏池会は武張ったことはしないわけですよね。それは貴族的には穢れですもんね。「そんな汚い闘争なんて」とかね。だから機能的には貴族的要素ですが血統がなければ正統化はできないから、近代合理的に正当化するわけですね。穏当で優れた政策を出そうと、官僚出身で頭がいいですからね。

さかのぼれば穏当な政党政治家たちとかになりましょうか。ややリベラル系の。

 

武張った伝統は、もちろん長州陸軍系ですから、山縣有朋田中義一系ということですよね。どうして商工省に抜擢されただけでタカ派的立ち位置を形成したのか、政治伝記などを読まないので岸のことはわかりませんが、とても陸軍と仲良かったみたいですね。もちろん軍需調達とかしていたわけですけど。タカ派的リスペクトを得るには武張る戦略が有効で、中曽根さんとかが軍服で登場するとかそうした意識ですよね。いつの間にか自民タカ派非主流派が、21世紀に主流派に変貌していくわけですが、物腰や目つきだけですごめる小泉さんはすごいとして、そうした岸以来の血統、正統性はあるのに、何だか可哀想に安倍さんはたぶん遺伝子的(彼個人的な)にはやさしい感じがしてしまうのに、家系的にがんばって武張らないといけない。苦しいでしょうね。若い時からがんばって身に着けたペルソナなんでしょうけど、どうしても子犬が吠えているくらいにしか見えない。

 

鳩山息子は立ち位置間違えているようにしか見えないが先祖帰りしているのかどうか。本来、かの鳩山兄弟はリベラル寄りで渡ってきたのに。ブランド戦略を壊していますよね。

 

だから日本では、

 <岸・安倍的クラスタ>が長州陸軍的権威を体現し(イメージだけ)、

 <鳩山・細川的クラスタ>が本来、ややリベラル、

   それに宏池会伝統を加えれば、岸田ということに。

   (本来旧田中派みたいのも来るんでしょうけど、額賀さんが

   残念だったのと小渕優子謹慎で見る影もなし。そして旧三木派

   は高村さん引退。思えば昔の竹下7奉行は早く亡くなる方が多かったですね)

 

これに近代理論的理屈(ある意味現代の常識)の正しさだけで

闘わないといけないのが、立憲民主党ということになりますよね。もっとも「正しい」というコトバは共産党の十八番でもあるわけですが。

 

<社会民主主義クラスタ 欧的には大きな政府派・福祉重視>

ということになりましょうか。

 

枝野さんの真摯な在り方が人気を呼んでいるようで何よりです。でも本来理論が大事で、枝野さんは分かりやすく理路整然とあるべきことを語るようでいいのですが、理路に説得されているのか、人物なのか。ついつい土人は属人思考してしまいますから、これが単に枝野人気だけに終わると哀しいものがあります。

 一周まわって復活したこの常識的な正しさですが、使いふるされると、すぐに「正当」(実はうそっぽい)に成り下がるので油断禁物です。「いくらそうは言ってもそうはならないもんだよ~」みたいのが、かつてリベラル系の発言をバカにしていた人たちの言うことでしたね。ただし、本来のリベラルは再配分と多様性ですから、実は世界標準的に見れば本来的でない軍備・外交的にあまり凝り固まると時代の動きに対応できない欠点もあります(重武装左翼なんていくらでもある)。そうした不安を持つ層にしたら単純な護憲は説得効果が働かないでしょうね。さりとて安倍さんの外交が今うまいわけでもないですから一体どうしたもんか。とにかく交替してもらうのが一番いいのでしょうが。

 

いずれにしろ、正しいことを言う人をそのまま素直に立派な人だと思えるようにならないと近代社会は来ないですよね。

 

さいごP.S.みたいな・・・

 術語としては正統=legitimacy 正当化=justification

なので、対象物があり、それを維持したい場合、動詞でjustify となりやすく、そうすることがjustification。「正当だっ」って思うみたいな表現で使う時に対象の性質としてlegitimacyなんでしょうけど、SJ理論の中では盛んに動詞化して、legitimizeなんてのが出てきて、実質、legitimize=justifyで区別していないようです。アメリカは大して伝統ないですから。

参考文献:Jost & Major eds. 2001 The psychology of legitimacy. Cambridge.

 

卑怯者

せっかくのブログだから、あえてもう少し過激なこともついでにちょっとだけ書いておく。

 

こちらアメリカに来て、たった半年くらいだが、驚いたことはひとつある。20年前、ステレオタイプの話を院生としていたとき、日本人のステレオタイプは教科書にある通り、「数学ができる」「シャイ」というのに相補的ステレオタイプの要素を加味してもこんなものだった。

 

でも、今から思えばこれ、まだフィスクさんのSCMは登場前だったけど、能力地位高、社会性低で、ユダヤ人ステレオタイプ、キャリア女性と同じ象限ですよね。

 

20年前は遠慮して、思いやりで悪い事言わなかったからかも。いや、今も一度も面と向かって変なこと言われないけれど、研究デザインや世評、テレビ等々で分かったのが、

 

アジア人はずるい

 

というステレオタイプですね。もっとも中東は全く別だし、南アジア(インドなど)はまた別だし、やはり微妙に東南アジアと東アジアは違うから、これは典型的には、日中韓の東アジア人に向けられたものと言えます。 昔の日本人の「勤勉」とかのイメージは、タイやベトナムなどの東南アジア人に引き継がれてイメージされているのではないでしょうか。もう日本人は勤勉とは思われていない。正しい勤勉とは有効に働くことであって、日本の労働生産性の低さは白日の下だし、働き環境は悪い見本だし、長時間労働は有名で「生産性があがらないのに馬鹿みたいに長時間労働で疲れて人生の楽しみ方を知らないむやみに動く(働くではなく「動き回る」)馬鹿者」くらいに思われている。

 

しかしアメリカではそれは通用しないから、アメリカに残って働き続けている、あるいは3世、4世とかの日系は働き者だし、スマート(賢い)だ。だから黒人は嫉妬する、妬む。

 

大陸に連れてこられたにしても居ついて、ずっとアメリカ社会に貢献している歴史は当然に黒人(国、地域はさまざまでもちろん1世、2世、3世とかもいるので本当はこういう十把ひとからげではない)の方が長い。アジア系はそういう意味では「新参者」だ。

 

IATやってもまだ黒人の方がアジア人よりも「アメリカ性」は高い。そして語学はヒスパニックとは断然異なり、黒人は当然ながらほとんどの人(一世以外)が流暢なネイティブのイングリッシュをしゃべる。ー世で来ているのは、中韓ベトナムと同じで優秀層しか来ないから大体来る段階で英語はうまい。そして西欧風である。(一世の多くも西欧で教育を受けている)

 

日中韓の一、二世は英語しゃべるが、かなりなまっているし、ものの要求の仕方、コミュニケーションがアジアである。だから疎んじられるところもある。文化が西洋でないから。

 

だから黒人は妬む。自分たちの方が長くいるちゃんとしたアメリカ人であり、ことばもふつうにしゃべれるのに、そうでない日本人とかが専門職についたり(医師、技術者)、よい給与を得ているように見えるからだ(アジアからの特に1世は優秀層しか来ないというフィルターが大きい、それ以降は遺伝的伝達+選択された環境ということになる)。だから黒人のようなスラムがない。(華僑の一部はヤバいが)

 

だから社会的に優遇されているように見える、そしてうまくやっちゃっているように見える東アジア人が妬ましい、不快なところがあるわけだ。 それで同じ非白人という条件で、優遇層vs被差別層 ということで社会心理学実験の「対照群」「比較群」にされちゃうわけだ。こっちだって差別受けてるんだけどねぇ、まあ。

 

さて、というのも1980年代末の日本の振る舞い、今だにトランプは根を持っているらしいw、日本のアメリカ進出における「ジャパンアズナンバーワン」みたいなノリのとき、貿易摩擦が激しく、日本市場は閉じているのがずるいとか、公正な競争ではないとか言われた。ステレオタイプが働きやすい影響があるのだろう。さかのぼれば高度経済成長時代から「エコノミックアニマル」と呼ばれていた。

 

当時子ども心に聞き流していたが、これは少し深く考えれば重大なことで、なぜならそもそも「黄色人種」は「サルに近い」と思われているからだ。だから「黄色いサル、イエローモンキー」なんだ。これは深層的には冗談でもなんでもない。背が低いし、やや腰をかがめて猫背だし、姿勢がサルに近い。動きもチョロチョロちょこまかしている。サッカーの香川だ。日本人選手はすばしっこい(これは十分ステレオタイプだ)。悪くとれば、(本来のサッカー的なマリーシャスさは足りていないのに)日本の連中は集団で動くネズミみたいでもあり、こそこそ、ざざーッと(時には怒涛のように、今なら中国人観光客を想像すればよい)動かれると不気味だし、怖い。

 

さて、神戸製鋼の不祥事である。次から次だ。自分の会社が儲かるためならずるをする。これが日本企業の基本姿勢と言っていい。あがっている数社だけの話ではない。構造的問題だ。昔から法は抜け目があり、それを察知してうまいことやるのが賢い大人みたいのが東アジアの大人イメージだ。これは中国とも共通している。遵法精神が薄い。

 

心理学実験:アメリカ:十戒を想起して書かせたあとはずるが0になる。西欧だって十分普段ずるかったりするとこもあるし、犯罪も多いがいざというときの信頼の源はこれだ。

 

アジア人(ただ、韓国はクリスチャンが多い)はこれが共有できていない。別文化の人々(そういう点ではイスラームと同じ)。

 

いざというとき、どっかで人として信頼できる何かだ。

 

さぁ、信頼ですよ。社会心理学のキーワードで重大性が分かりますよね。これからの時代はますます信頼をベースにして国際社会は動いていきますよね。西欧的価値観が主導で「グローバル社会」は展開していくわけですから。信頼は基本価値です。これは社会的資本のもとにもなります。だから簡単に金では買えない重大な資産ですね。

 

その、その大事に大きな大きな資産を減損して、食いつぶしている深刻な重大性に日本企業は気づいているでしょうか? これは経済価値の話ですよ。 もう人としてとか、建前の話ではない。 信頼を減損すると商売するうえで大損こくんですよ。

 

このグローバル社会に備えることは、大学で英語を教えるような矮小な話ではなく、西欧的価値を理解して、企業人がそのルールを適切に理解して土俵にのって参加していくことでしょう。

 

西欧社会の信頼価値の重大性を見過ごしているとしか思えません。

 

せっかくかつてのソニー、ホンダ製品の「故障の少なさ」「性能のよさ」で、人はともかく「日本の商品は信頼できる」というステイタスをアメリカ社会で勝ち得たこの40年ほどの努力が水泡と帰そうとしている。ヤバいと思いませんか。

 

はい、社会心理学の謝罪研究を参照しましょうね。

 

有効な対処法、誤りを二度と繰り返さない対策構築・・・しているでしょうか。ここが日本企業の踏ん張りどころ、世界の評判において信頼を減損しない方法です。早急に取り組む必要があるのに、不祥事を繰り返す三菱自動車みたいにやばいです。結局会長にゴーン氏みたいな人を持ってこないことには「変わる感じ」が出せないわけですよね。

 

エコノミックアニマルには何回でも言いたい。「ちゃんとした商売しないとあなたが損なんですよ!」

 

そしてこういう仕方でしか耳を貸さない人がいたら、それが「アニマル」つまり人間として徳性、理性をもたない「人であって人でないもの」それが「イエローモンキー」です。

ただでさえ、地位を高めると、SCMに基づけば、性格が疑われやすくなるというリスクの法則があるわけですから、防ぐために気をつけないといけないわけです。 

 

なのに自ら自分のステレオタイプ性を高めて、海外社会から軽蔑を招くのは全く損な行いで、被害は海外で暮らす同朋全員に行き渡ります。

 

政治や国家の信条には「建前」「理想」がいります。アメリカ社会では当然のことです。だけど日本では理想を軽蔑します。今こそ、グローバルにもしも認めてほしいのなら?、政治家は「理想を語り」、国家の理想を語り、日本人、日本企業の振る舞いの理想を語り、「その建前と旗印があるからこそ」日本製品は信頼できるし、日本人、日本企業との取引は信頼できると思わせる。これが本当の国益であって、本来の自民党が担うべき役割ではないでしょうか。(日本を取り戻すではなくて遵法精神を持つ「新たな日本をつくりあげる」でしょう。昔ながらの職人気質をあらゆる場面で復活させるのは無理ってもんです)

 

ところが自民党政治家(だけではないが)は今も不祥事を繰り返し「政治家という者は信頼できない生き物」というステレオタイプを悪化させ、悪い見本に成り下がっています。日本の政治家たちが全くもって信用ならないのに、どうして日本製品や日本企業を信頼担保できるか、ここまでの僥倖を無にしないように、減損被害が拡大せず、間に合うように、真剣に各位(誰??、同級生か(笑)、いや神鋼はやめているし、おお東芝の取締役か?)がんばってほしいと思います。

 

政権の正統性

昨日のジョンのゼミは正当性の動機の話でした。ここらへんの文脈になると西欧的思考は意識的過ぎてそもそも術語のネーミング、概念の持ってきたからして違和感があるのだが、それは温めて考えておくことにして、正当性、正統性の話をしてみたい。

 

わたし自体、高校がいわゆる進学名門校みたいなところでそこからT大に入っているわけだから、同級生と言うのは日本のなかでわりあい「よいめにあっている」「優遇されている?」部類かと思う。医師や弁護士など資格稼業、それから議員みたいな政治家そのもの、それらを除いて考えてみても。 ただ、わたし高校は特段、金持ち的高校ではないので、資産家はそう多くないし、すでに特権を有している資産家連合体みたいな慶應的要素は皆無だ。東京にはそうした要素のある成蹊とか成城とかさすが首都で、資産の有効運用(人脈づくりも含めて)に資する共同体がいくらか形成されているのは興味深い。中小においても大企業ほどではない、裕福な事業家、地域の名士などそうした「中堅社長層」を受け入れていることの多い、高校・大学もだんだん分かってくる(特に塾業界で長く働いていると)。

 

そうした者たちが自分の利益になるように、あるいは自分の資産を守り、それを子どもたちなど血族に譲り渡していくにあたって「有利な」政治選択を行うのは「合理的選択」であり、そうした意味で長期にわたって日本で政権党をやっている自由民主党を支持するのも分かる(小自営は意外に公明ないし共産支持というのが増えて来るが)。

 

自民党はひとことで言えば、こうした既得権層、もっと簡単に言えば、「富める者がますます富む」ための政党であり、(事実どうなのかもう少し慎重に言うべきだろうが)日本の支配層が支配を維持し続けるために支配層自身に有利な互助団体である。たとえば経団連から支持を受け、昔はもっと大っぴらに大献金があり、そうした支配-支持関係のなかで金を回転させていた。

 

戦後から高度成長へとしばらくはこれは全く正当化できたかもしれない。大企業と言っても海外に出れば中小企業、それを国家が国家戦略として応援し(通商産業省はそのための省庁だったと言えるだろう)、産業を保護・育成し、世界にはばたかせる。まぁ一理ある。それによって国全体が富むということがあるからだ。まるで重商主義政策である(戦争もそうやって生じていった)。

 

しかし、1980年代以降、日本の大企業は、世界でも優れた企業であるし、十分儲かっている企業だ。企業と言う存在を建前的に考えれば、資本家は資本を投与して効率的に儲けようとするわけだが、AIとかロボットとかを考えない時代であれば、それには人手が必要だった。いくら儲けるアイデアがあっても周りで大勢の人が実際に動いてくれなければ全く儲からないし、話が始まらない。そこで労働市場ということになり、比較的よい給与を提示すれば人が集まり、喜んで働いてくれて、まぁ一種Win-Winとなるわけだ(実際は権力が全く異なる)。戦後の日本の労働組合はおおむねそういった路線でWin-Win感が持てるように賃上げ闘争を繰り返し、その代わり会社に忠誠を誓い、自己の労働を投入していたわけだ。会社も大きくなるし、給与も上がるし、やる気も出るしみたいな。

 

しかし、資本家の心性は、自分自身の儲けになるわけだから、それは創業家が滅んで株式会社の雇われ社長、会長に変わって行っても、個々人がまず自身の利益を考えがちなのはその通りである。すると、「合理的」には、なるべく同じ仕事をしてもらうなら「従業員は給与は安く働いて」もらうのが経済的に効率的だと(実は錯覚かもしれないのだが)考え、そうして非正規社員、アルバイトが増え、時給も買いたたかれて最低賃金近く、従業員は誰も働いても儲からず、徐々にやる気を減退し、会社自身は利益をあげてストックしていく(内部留保)。もちろん経営陣には高給与が支払われる(日本の場合、退職金などの支給で補う方法がとられたりするが、もちろんアメリカほどの高給与ではない。世界水準で見れば文句言われるほどもらってないよ~とみんな言うだろう)。

 

しかし、従業員がゼロになれば会社なんて成り立たない。それは労働市場という市場で怜悧に調達するということだろうが、人間は物品とは違うという考えを明確に打ち出せば(物品扱いしてほしいですか?)、企業にはそうした公的責任もあり、とりあえず「うちの会社に来てちゃんと働いてくれている」ことに感謝すれば適正に利益を配分するのが責務であろう(していない)。

 

ちゃんと見れば(というほどもない当たり前のことだが)、ここには明白に労使対立があり、経営陣は給与は安く抑えたい。利益は守りたい。そのためには法制的にも業界を守りたい。だからそれが可能と思える政治権力と取り結ぶ(もちつもたれつ)。つまり、企業の利益と自分の利益をあくまで守り、稼いで儲けていくことを、多くの人間の幸せよりも優先する方向性、選択が政権党との癒着ということになる。だからそうした者たちが自民党を支持するのは当たり前である。自民党は大企業、支配層、連合体であるわけだから、もちろん東電はつぶさないし、メディの電波利権は守り抜くし(メディアも支配層の一角である。大企業だから、当然インセンティブとして自己の権益保持という方向性を持つのは当然とも予測できる)あるいは農村や地方においてはその地方権力や地方企業、農協などと結びついて、その地方における政治・経済的に有利な地位を保持するシステムとなる。典型的には地方に道路を通したり、望むものを誘致したり、あるいは本当には望まないものだが、なんらかの利権につながる要素のあるものを誘致することを説得して個人的・仲間的利益は確実に確保したりなど。

 

当たり前のことしか書いていないので退屈で申し訳ないが、こういう仕組みは自分の身の回りで起こっていることから、本当に本当に当たり前のこととして身に染みていた。だから「庶民の利益を守らない」共産党的には「庶民いじめ(あまり好きな言い方ではない)」(いじめとは異なるもっと本質的でシステム的な大問題と思うのだが)というフレーズはいわば「当たり前」のことであって、むしろ人々がそれに耳を貸さないことが不思議で仕方がない。

 

だからすでに利得を得ている層がそのまま利得を得続けるために自民党に票を入れるのは当たり前なのだが、そうでない人まで自民党に票を入れないと長期政権にならないし、今回だって自民党圧勝と言われ、野党の票が割れるとかだけど、それもそもそも自民党に誰も入れなければ野党の票が割れたって野党が勝つのだから、「誰かが」自民党に投票しているせいで常に自民党は勝つのだ。

 

なぜ??

 

これは本当に昔から分からなかった。

 

すでに日本が富みだしてから、「すでに儲けている人がさらに儲けようと思って、自己利益獲得に奔走する、既得権益の保持に奔走する」のはそもそも生き方として見苦しい、汚い、卑しいとしか思えなかったので(中高の頃からそう思っていた)、自分はあまりそうした「卑怯な」仲間には入りたくないと思って生きてきた(大学人も既得権益の一角だと言われたら、それはある意味そうだと首肯せざるを得ないが、本来の役目はもっと第三者的、監視的なものである)。

 

だから「利益も得ていないのに」いやむしろそれで「被害を被っているのに」「賃金を安く買いたたかれているのに」大勢の人々が自民党を支持することが不思議で不思議で仕方ない。「あなたたちのための政党ではないし、政党も全くそう思っていませんよ」ということなのだが。

円安誘導だって輸出企業が儲かったり、株価が上がって株を大量に持っている富裕層はさらにますます富んだりするために行われただけであって、このところの政策も裕福な者限定で有利な政策しかしていない。当然である。自民党なんだから、それが本来の正しい方向性なのだ。庶民を富ませ、幸せにするために政党やっているわけではない。

 

前にこのブログで、内田樹とかの「破滅願望では?」とか、「本当に貧しいものはなんか考えているゆとりがそもそもない」とかいくつか頷ける理由もあるわけだが、どうもそれでは足りない。ごく普通に日常を送って、貧窮にあえいでいるわけでもない(が、もちろん金持ちでもない)庶民の一定数がこぞってなぜか自民党に票を入れる。自分の想像力の限界で、昔からこの謎が本当にわからない。

 

昨日議論して、理論的にはシステム正当化なんだ、それで安心なんだ、そうだよねと議論は終わるのだが、やはり何か徹底的に腑に落ちないのだ。なんか自分が遊離していておかしいのだろうか?

 

庶民にとって(こういういい方も見下しているようでおかしいように思うのだが)、「なんか安心っ!」ってそんな大事なことなのだろうか。たぶん大事なんだろうね。そして「そのまま自民党政権が続く」というのは「いつも通りの日常が続く」こととイコールであり、「何か安心」なのだろうね。これは日本人に「不安遺伝子」抱えている人が相対比較上ではちょっと多いからでしょうか。「結局なじみのある光景が日常的に一番安らいでよい」(たまに観光旅行で楽しむのはいいが帰ってきて「あ~やっぱり日本が一番落ち着くわ!」と言っていたい?)

 

これは決して「安心のただ乗り」ではなく、生活上高い対価をじわじわとず~っと払わせられての上であるわけだが、「取られている感」が少ないというのは政権運営が上手ということなのでしょうね。上手な人が減っている気はするが。安倍さんはそうした既得権益層が、あまりそれが目についてその利得構造が庶民から見える白日の下にさらさないように気を付けていたのを身もふたもなく、ある意味正直にがんがん、「自分たちが得したい」「私が得して何がいけないんですか! だってわたしは最高権力者なんですよ!」「わたしは自分自身が個人的にしたいことをすごくしたいんです!」ともろに叫ぶ方で、昔気質の自民党議員から見れば「そこは黙っとけ~」「それを言うなよ」という目も当てられない、行儀をわきまえない子どもみたいに見えるのではないでしょうか。やはり「破壊衝動」か?彼個人は。

 

昨日は決定権のない者、パワー(勢力、権力)ない操作をするとよけいにシステム正当化みたいなのの発表で、それ自体そうなのですけど、つまり政治的に有効性感覚を持てない者がよけい政権党支持するみたいな、でも支持しないとそんなに不快なものなんでしょうかね~、やっぱり不思議。

【行儀のよいのが】がたつくものは捨て置けなのだー【墓穴】

ドア

 

ここにおいてこれがやっかいなのはいろいろ経験して思う。

日本ではどこでもドアがあれば、ちゃんと開いてちゃんと閉じるものと無垢に信じているだろう。ここではそうではない!

 

たとえば大学のトイレ。ちゃんと閉まらないものがときどきある。実質ロックがかからないとか押さえていないとふ~っと開いてしまうとか。リーハイでもNYUでもそうだ。

 

で、リーハイのとき住んでいた3階の部屋。ドアはあまりちゃんと閉まらなかった。しかし、あまりいいかげんに開けておくと寝ている間にネコが入ってくるw。で、適当に閉じず開かずでまぁ「押し込んだ」状態という案配でしょうか。これが一番無難!

 

さて、ここWeehawkenのアパートでもそういうドアは多い。

ちょっと話は違うがこういう共同宿泊するようなところでは、出たときトイレのドアを閉めてはいけない。誰か入っているかどうか分からなくなるからだ。今回、ヨーロッパから来た行儀のよい夫妻は、締めちゃうのだ。じーっと様子をうかがっていてw、いなさそうならノックする。案の定反応がなく、開けてみたら誰も入っていない。面倒くさい。開けておいてくれよ。いるか、いないか考えてみているだけで面倒だ。これまでのゲストみんな開けていたよ。大体理屈が分かっているのだろう。大学でもばねで返るのでなければ半開けしておくものだ。まぁそれはよい。

 

ところが事件発生。

 

物置が閉まって開かないのだ。ここのドアはそもそもロックしないはずなのだが、よくある通り、もう建付けにガタが来ていてちゃんと閉まらない。無理に閉める必要はないのだ。単に物置なんだから。

 

それが・・な~んでそこにあったアイロンがキッチンに置いてあるのかなぁ??と朝思ったのだ。物置を開け閉めしていたのは分かっていた。

で、ふと見ると「閉まっている~」。 それが、・・・開かないのだ。なんでこれ! 鍵かかるもんなの?? どうもノブを回転させても差し込みが回転しないようだ。連動が壊れているのだ。回すとカサッと戻ってしまうみたい。表側、外側がスライドに切れている鍵なら、何か差し込めば簡単に開くし、本当にロックのあるもので日本のトイレとかならマイナスドライバーで回転させて開けられるようになっているものも多い。これは以前確認しておいたが、外に切れているタイプでなく、内に切れているので、外からものを突っ込んで開かないのだ。同じことで最初入居した時、同居のおじさんが自分の部屋を閉めちゃって入れなくなった話は以前書いた。

 

そう、簡単に外から突っ込んで開かないのだ。上から下からナイフ突っ込んで裏からプッシュしようとしたがダメだ。

 

トイレットペーパーの替えが入っているんですここ! あと、2,3日だなペーパーもつの。4,5人いると消費が早いからな。何だか無駄にやたら使うやつもいるし(床拭いたりしているのか・・)。

 

大家さんには言っておきました。明日クリーニングレイディがついでに見てくれるそうだ。なんとかなればいいが(ちゃんと大工道具があれば、もちろん釣りの蝶番の方からドア自体を外すことは可能だと思う。ペンキで塗りこまれちゃっているけど)

 

やれやれ、いろんなことが起こりますわ。まぁおもしろいけど。

 

今日は、ブラウンバッグさぼって原稿書き続け、ついに脱稿しました!!!おめでとう。 ちょっと直さないといけなさそうだけど・・

。ドアじゃないけど、ちゃんと締めていないような。お後がよろしいようでぇ。

リベラルとは何か、「さよく」とは何か

心理系の方でこうした関心がもし薄い方におかれては、永続敗戦論や日米関係についてあまり書籍を読まれるということがないかもしれません。捕捉します。

 

わたしが治外法権についての怒りを初めて感じたのは中学か高校かわかりませんが、沖縄で米兵が女子に乱暴を働いてそれを日本の法律で取り締まれない(捜査することさえできない)という理不尽な事態があることを知ったからです。

 

対米自立が政治的選択として正しいかどうかは開かれた議論においておくとして、政治戦略というものは本来「ありとあらゆる可能性について思考実験的に考えてみる」ということですね。こういうことはあり得ないと決めてかかったり、タブーだから踏み込まないというのは科学的な思考ではなく、何でも考えて、議論してみることです。

 

そうした基地の治外法権に疑問を感じるということから発していますから、10-40代比較的明確に左翼的志向性を持っていた私は、沖縄解放という左翼的な立ち位置からの対米自立がなぜできないのかの問題意識で考えていました。ナショナリズムは右翼のおはこですから、ナショナリズム的観点から捉えれば、「自国の領土を他国に占領されている」ことに怒りを感じるのは、右翼の方がよほど強く感じるべきことであって、確かに70-80年代までの右翼はそういうことも言っていましたが、右寄りの政党であるはずの自民党がそういうことをほとんど言わないのは、高校生心にも実に不思議なことでした。なぜかに興味ある方は前記事の本を読んでみてください。最近はこの本よりも少し進んでNHKが夏にもGHQ統治下の映像を流していたり、東京裁判の検証をしていたりしましたから、以前より議論する空気は醸成されているのでしょう。

 

乱暴にひとことで言えば、戦争責任として天皇を廃して、日本から天皇制を取り除くという対処をしないバーターに戦後多くの政治家が(自分自身の地位の温存ということを含めて)GHQに協力した(あるものはCIAのエージェントとなった)という歴史的事実がアメリカから開示された公文書からも明らかになったという近年の知識界での常識の実証的確認が進んだということです。敗戦国として未来永劫アメリカの下僕として従うという約束のもとに自らの地位保全がなされた者たちが大勢いたということです。それが現在の自民党を形成していますから、自民党はアメリカの言うことを絶対に聞かないといけないわけで、これは都市伝説でもデマでもない、歴史的経緯ということです。

 

もちろん、一応独立した国ですから、「昔約束したが、わたしはこれを破棄することにする」という政治家も現れていいわけですが、。。どうなるかは分かりますよね。

 

戦後ほぼ一貫して長期にわたり政権を担ってきた政権党がこういう経緯を持っているのですから、日米交渉を行って、治外法権を改善するとか積極的対策を打ち出さず、戦後70年以上たってもなかなかに沖縄の現状が改善されないのもうなずけます。近頃は忖度が流行っていますから、アメリカがもうグァムに引き上げて構わないと言った部分も「どうぞ居てください」という談合によって思いやり予算をつけてあえて「必要以上に居てもらっている」部分もあります(実際の戦闘になったときの戦略的意味さえないのに)。

こういう点から見て、論壇においては、日本は十分独立国の体を成していない、アメリカの属国である。ということは常識化しているものと見えます。

 

ここで「日本の誇りは・・・」とか言い出すと右翼みたいになるわけで、前回の記事も別に右翼的に日本の誇りは・・と言っているわけではないことを註記しておきます。しかし、国であるからには国旗への尊重の強制とかは脇に置いておいても、自分の生まれ、住んでいる国を素直に愛する、愛着を持つというのは健全にあっていい話で、社会心理学でもナショナリズムパトリオティズム愛国主義)を分けていますね。ナショナリズムの主体は国家、政府にあり(自国家が他国家に優越的に振る舞うことを志向し、そのためには個人が国家に尽くす)、愛国心は個人の心情です。

 

もともとアメリカの属国状態ですから、ある意味個人の心情としても傷つけられている人々かいるかと思いますが、近年の国境紛争で、自国領土が脅かされることで、さらに「日本人としてのプライド?」が傷つけられると感じる方々がいるのでしょう。こうした機会を経て、ネトウヨも成長し、右寄りの世論が日本のなかで成長、拡大していった経緯があります。(ところが右の人は不思議にアメリカ寄りで、アメリカと仲良くしたがる(これを宮台はアメリカのケツなめと敢えて挑発的下品な言を弄して指摘していますね))

 

さてこうしたナショナリズムは定義上、自国を他国に対して優越させようと欲望する傾向性ですから、局面によっては排外主義となり、本来は必然的結合ではないのですが、おうおうにして、自国内にいる他国人を排斥、差別しにかかる(典型的に在日朝鮮・韓国人に対する差別やヘイトクライム)。

 

戦後日本政界がある意味冷戦の代理人みたいなもので、アメリカから支援される自民系とロシアや中国から支援される社会党系の2大政党制で、その点どっちもどっちということから、現在は、社会民主党など左よりもものはすべて「中国の手先」という言説が幅を効かし、「さよく」の有効性は消滅しました。本来、へんに親中国ではないリベラルというものが政策的に存在していいはずですが、現在リベラルというと国境紛争に寛大あるいは腰が引けた日本の国益を考慮せず、(場合によっては中国に益する)うらぎり日本人であるということがなぜか社会的大衆的定説になったかのようです。

さよくやリベラルのレッテルを貼られると、日本の国益を損なうやからというのと同義のスティグマになってしうまうのですね。

 

不幸なことです。もっと健全なリベラルは構想できないのでしょうか。

 

先のナショナリズムから基づく排外主義に対置すれば、ダイバーシティへの理解、寛容、粘り強い慎重な討議、多くの配慮による意思決定、熟議による民主主義などを奉じて戦う勢力があっておかしくないはずですね。政策的対立軸としては明確です。

あるいはこれに「遠く国外では自衛隊は戦闘しない」とか「原発0を目指す」とか加えてもいいかもしれませんし、輸出企業は損してもいいから、輸入食料を安く購買したい消費者の立場から円高を容認するという立場もあっていいかもしれません。

 

しかし、対立軸は観念的に明確であっても「差別するぞ」という具体的行動に直結しやすい(ヘイトスピーチ行進など)排外主義に対して、「ダイバーシティを奉じる」というのは抽象的、観念的な旗印になりがちな点は指摘できます(レインボーパレードとかありますけど、まだどうもそういったものが大衆的に熱狂的に受け入れられるというマインドにはほど遠いような・・)。少数に配慮するのは多数のわがままを通したいというテーゼよりも論理的に少数になりがちですので、「大衆動員」の決め手に欠けるわけですね。

 

いずれにしても、現代日本人の頭のなかから「さよく」ということばを書き換えて、なんからのメッセージを出さざるを得ないときなのかなと思います。

 

今、希望の党に受け入れられない民進党左派の人たちが今週中に新党を旗揚げしたいという話が出ていますが、どういった「ネーミング」をするか見物です。

 

ジョンのゼミでの議論では、ポピュリストは右派だけに限らず、左のポピュリストの話もあるのですけれども、ヨーロッパでは今も元気に旧左派政党が衣替えしながらやっているわけですね。どうして、今の日本人はここまで左派ぎらいになってしまったのでしょうか。自分は今、立ち位置が中道左派くらいかなと思っていますが、もちろん政策的にはもう左右という古い分類(こういうのを古い分類というのも簡単に言いすぎで国際的には十分重要な次元であり続けていると思います)に基づかないさまざまな選択肢があり、イッシューにより態度を明確にしていかないといけないわけですけれども、2017年現在、ここまで資本主義、金融資本主義、グローバリズムの徹底の弊害と限界を見えてきた現代世界にあって、いわゆる資本主義でも社会主義でもない第3の政治・経済運営方法が真剣に模索されている世界にあって(先進国のなかで)日本だけがやたら右だらけ・・・(世論も?)というのはあまり賢い国の運営方向ではないように思えます。もっといろいろな可能性を自由にオープンに闊達に議論して、経済政策と予算の配分方法についてもっとまじめに議論をするべきときだと思いますよね。

 

「リベラル」とは本来そういった言論や思考、行動の「自由をさまたげない」こと、オープンで抑圧を嫌う寛大で開放的な態度をさしていたものではなかったでしょうか。人が圧殺されないひとりひとりの個が尊重されるそうした自由を愛することではなかったのでしょうか。