zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

こまば

4月から非常勤で授業をする。こまばは初めてだ。

 

しょうもない内集団ひいきだが、東大生は好きだ。もちろん個々にはたぶん気に入らないやつやそれこそ「考えがどうしようもなく異なるやつ」はいっぱいいると思う。

 

東大が母校でない人はこれを読まれていやな感じがする人もいるかもしれないけれど、自分が学生時代から思っていたのは、東大生は東大生なりの特有の悩みや葛藤みたいなことがあり、本当は自分の経験から言えば、「できれば誰かそれを理解してほしい」なんていう甘えも起きるものだろう。

 

自分は最初頃、臨床分野にいたもんだから、そうした観点から言えば、自分の強みはなんだ・・ある種のできる子(勉強のできる子)の悩みが分かることでは?と思ったこともある。それは学内の学生相談室(当時、臨床の院の先輩たちが助手職として勤務していた)スタッフとしてはあっていい、役立つ資質である。

 

最近では「勉強の哲学」(千葉)なんて書籍も出て、勉強するほどふつーでなくなり、変な人になっていくということもだいぶ言語化されてきたが、自分なりには、偏差値が高いことは、分布から言えば「異常」であるという観点は大切と(本郷での授業で)語ってきた。

 

自分が簡単にわかることが人には分からなかったり、そうした発想に到達しない人がいたり、とにかく周りと全然違うことを考えたり、発想したりしがちで、生でそれを垂れ流すと悉くひとと「違う」ところばかり目立ってしまうのだ。しばしば処世術が必要である。自分の考えることが当たり前とか、今思っていることが当たり前だと思い過ぎないこと。とりわけ「勉強」については人は自分ほどできないのが当たり前であることをきちんと内心心得ていないと時にひどい目に遭う。

 

わたしは塾業界が長かったからわりに早々とそういう状態は抜け出して、相対化されたと思うが、塾の授業ではもちろん自分なんて絶対に基準にしないし、「わたしはこうしてきたから」なんてことはひとことも言わない。世間ではいろんなことで、「自分の経験を基準にものを考える」人たちが多いらしいが、自分のかつての悩みは、「人は絶対自分の経験とは違う」とはねつけ過ぎる問題点であったように思う。「どうせ理解されない」病みたいのが深くて、「何を言ってもどうせ誤解されるし、真意なんか伝わらないし・・」のちになって、それはコミュニケーション上の工夫の問題でもあり、常に自分の感性にもとづく「生のことば」なんて、「誰だって」伝わらないものだと気づいた。だけど自分はいまのところも「すごく共感してわかってもらえた」という人生経験は皆無である。今は期待もしていないが。

 

だから、時に同じ志を見たとか、簡単なところでは同じ研究テーマであるとかで、何か「共有できた感」があって学会に参加してよかった~みたいな(サービス)反応が見られることがあるが、わたしはそんなこと一度も思ったことがない。

 

自分と研究スタンス同じで同じねらいで何かやっているという人は若い時からそもそも見たことがない。国内だが。あまりに片隅のニッチでやってたからかもだが、そもそも人が自分と似ているという感覚はこれまで持ったことが一度もない。

 

話を戻すと、東大生であるだけで、あるいはN校生であるだけで、おおげさに言えば「人間でない」という扱いをしてくる向きもあるし、逆に自分とは分かり合えないと(特に低階層の人が)決めてかかって(実際そうかもだが)、はなから距離を取ろうとするのは普通に生じる日常茶飯事だ。冗談会話でよくあるネタだが、世の中には、「N→T大なんて実物初めてみた!」とか動物園か見世物小屋のように言う人がいるが、「いや、だってそれ人口的にはT大出身で一番多いかもですよ(まじにいえばKの方がもう多いだろうが)」というわけだ。

ついでに言えば、うちの実家の150mくらいの通りにそれは4人もいた。身辺的にはなんも珍しくないのだ。理Ⅲはうちの学年受験のとしで23人だから、当時の入学当初定員90名の25%、4人にひとりはN校生ってわけだ。今でも同窓会するとそうした医学界でのメジャーメリットはどうやらあるらしいと聞く。ちなみに文系学者のメリットはない。理Ⅲに23人入っているときに文Ⅲは3人だけだからだ。

 

すぐ話が脱線するが、若い時のうっすらした悩みは人からの乖離感(距離感であって解離性状態ではない(笑))、孤独感みたいなものだ。頭がいいと人間性がおかしいんじゃないかと思われやすいし、また実際わたしのように人間関係がうまくないタイプは、市民運動の現場に行ったって浮きやすいし、同じ東大生の同僚が一時的にいたことがあるけど、〇〇さんはKさんとは違うという認定で、〇〇さんの方がよりふつーな人間性豊かな人と認識されてわたしとは区別されていた。結構そんなこんなで、大学院初期のころはかなり生意気だった自分であるが、市民運動経験がいまひとつはかばかしくなくなるとちょっと自信も失せて、院に戻った時は臨床からの離脱半分、破門半分みたいな状態でちょっとおとなしく、より内向的になっていった感じがある。社会心理をやることでより外面を形成するようにはなったが、人との乖離感や世間との乖離感は保ったまま、しかしそのお蔭で?より相対的な視点でひとごとなことを語ることはできるし、それがよいことかどうか、適切かどうかはわからないが、これが自分のやり方だからそれはもういいんだという心境にはなった。

 

乖離感のもうひとつの根っこはたぶん、T大生とか学歴高いとかのステレオタイプにくっつくような文化性の高さが足りないからだろう。なんどとなく、ここに記しているが今もある意味貧乏だし、小学校で貧困地帯にいたせいで、三つ子の魂的に塗りこめられた文化性があまりに庶民的で、友達のところでだらだら遊んでいても、そこのおやじは本なんか読まないでビール飲みながらひたすら巨人戦やプロレス見てるみたいなおっさんばかりだから、自分はむしろそれが懐かしいというか心のふるさとというか、なぜ自分の家から影響が薄いか分からんが父は転勤で不在が多かったし、自分が尊敬していなかったし(ひどいな)、あまり模範にしたくなかったからかもしれない。

 

すると、偏差値は高いけど文化程度は低いみたいな状態になって、だから学生時代も文Ⅲのやつとしゃべったりすると、むちゃむちゃ話が合わなかった。とにかく品性が高いとバカにされる小学校でまるまる6年過ごしたもので、もともと肌合いがあったかどうかわからないけれども、ひところまでは自分も品性の高い人を馬鹿にしていたくらいだ。(ひところはイデオロギー的に反ブルジョワジー、反プチブル文化みたいな理屈をつけて)きれいな壁を見ると落書きしたくなる心境というか・・。

 

すでにでもこんな心境はいまどきのこまば生には当てはまらなさそうだから、学生相談上も授業運営上ももうあてはまらないが、ひとつだけ、現任校や前任校の学生たち(ステレオタイプ)と違う点はあるだろうと思う。

 

それは、「自分でこの日本を動かせる」と思っているかどうかだ。

 

これはいくぶん大げさだが、比較的日本の中枢に近いところや日本のなかの代表的な、ある意味経済界では影響の強い伝統的な?立派な企業の一員(しかもいずれは経営陣に?)になれると思っている、その見込みがあると思っているので、日本が自分の手にあるとある意味思っているということである。

 

これはたぶんでも生きていくうえでだいぶ違う話で、「お上」は自分とは無関係と思うか、「自分がお上である(徳川幕府幕閣みたいな)」と思っているのではだいぶものの考え方、ものの捉え方、日常のセンスも違うのではないだろうか? 

 

なかには「そんな感覚、普段全く持ったことがない」と思う人もいるかもしれない。そう、N校生にとっては、少なくともこんな狭い小さい日本くらい、「当然に自分の手が届くところにあり、自分が主体性をもって動かすことも可能な地点」にあるものとしか見えない。自分だって「もし自分が政権とったらどうするか」という発想でものを考えたことは何度もある。政治家にはならなかったが。

 

だからそういう観点から言えば、悪い意味でなく、「エリート」予備軍である東大生にはそれに見合った教育はした方がいいと思うし、勘違いせずに冷静に心得てほしいことは今から見てたくさんある。

 

だから特に本郷では、「統治」をどう考えるかという話はするつもりだ。もちろん民主主義社会は統治する社会ではないが、実際には今は統治されているので、統治をどう考えるかは大事なことだ。それは政治でも法学でも経済界でも大学人でもそうだ。そんな話をまじめに聞ける人たちもたぶん東大生しかいないし、ある意味そうしたことばがうまくまっすぐ伝わればいいなと思っている。

 

こまばの方はそこまでは無理だろうが、一方、たくさんの科類がいるので、そのさわりくらいは伝えたいということはある。