zatsu_ten6の日記

ペンシルベニア在外研究、滞在日記

卑怯者

せっかくのブログだから、あえてもう少し過激なこともついでにちょっとだけ書いておく。

 

こちらアメリカに来て、たった半年くらいだが、驚いたことはひとつある。20年前、ステレオタイプの話を院生としていたとき、日本人のステレオタイプは教科書にある通り、「数学ができる」「シャイ」というのに相補的ステレオタイプの要素を加味してもこんなものだった。

 

でも、今から思えばこれ、まだフィスクさんのSCMは登場前だったけど、能力地位高、社会性低で、ユダヤ人ステレオタイプ、キャリア女性と同じ象限ですよね。

 

20年前は遠慮して、思いやりで悪い事言わなかったからかも。いや、今も一度も面と向かって変なこと言われないけれど、研究デザインや世評、テレビ等々で分かったのが、

 

アジア人はずるい

 

というステレオタイプですね。もっとも中東は全く別だし、南アジア(インドなど)はまた別だし、やはり微妙に東南アジアと東アジアは違うから、これは典型的には、日中韓の東アジア人に向けられたものと言えます。 昔の日本人の「勤勉」とかのイメージは、タイやベトナムなどの東南アジア人に引き継がれてイメージされているのではないでしょうか。もう日本人は勤勉とは思われていない。正しい勤勉とは有効に働くことであって、日本の労働生産性の低さは白日の下だし、働き環境は悪い見本だし、長時間労働は有名で「生産性があがらないのに馬鹿みたいに長時間労働で疲れて人生の楽しみ方を知らないむやみに動く(働くではなく「動き回る」)馬鹿者」くらいに思われている。

 

しかしアメリカではそれは通用しないから、アメリカに残って働き続けている、あるいは3世、4世とかの日系は働き者だし、スマート(賢い)だ。だから黒人は嫉妬する、妬む。

 

大陸に連れてこられたにしても居ついて、ずっとアメリカ社会に貢献している歴史は当然に黒人(国、地域はさまざまでもちろん1世、2世、3世とかもいるので本当はこういう十把ひとからげではない)の方が長い。アジア系はそういう意味では「新参者」だ。

 

IATやってもまだ黒人の方がアジア人よりも「アメリカ性」は高い。そして語学はヒスパニックとは断然異なり、黒人は当然ながらほとんどの人(一世以外)が流暢なネイティブのイングリッシュをしゃべる。ー世で来ているのは、中韓ベトナムと同じで優秀層しか来ないから大体来る段階で英語はうまい。そして西欧風である。(一世の多くも西欧で教育を受けている)

 

日中韓の一、二世は英語しゃべるが、かなりなまっているし、ものの要求の仕方、コミュニケーションがアジアである。だから疎んじられるところもある。文化が西洋でないから。

 

だから黒人は妬む。自分たちの方が長くいるちゃんとしたアメリカ人であり、ことばもふつうにしゃべれるのに、そうでない日本人とかが専門職についたり(医師、技術者)、よい給与を得ているように見えるからだ(アジアからの特に1世は優秀層しか来ないというフィルターが大きい、それ以降は遺伝的伝達+選択された環境ということになる)。だから黒人のようなスラムがない。(華僑の一部はヤバいが)

 

だから社会的に優遇されているように見える、そしてうまくやっちゃっているように見える東アジア人が妬ましい、不快なところがあるわけだ。 それで同じ非白人という条件で、優遇層vs被差別層 ということで社会心理学実験の「対照群」「比較群」にされちゃうわけだ。こっちだって差別受けてるんだけどねぇ、まあ。

 

さて、というのも1980年代末の日本の振る舞い、今だにトランプは根を持っているらしいw、日本のアメリカ進出における「ジャパンアズナンバーワン」みたいなノリのとき、貿易摩擦が激しく、日本市場は閉じているのがずるいとか、公正な競争ではないとか言われた。ステレオタイプが働きやすい影響があるのだろう。さかのぼれば高度経済成長時代から「エコノミックアニマル」と呼ばれていた。

 

当時子ども心に聞き流していたが、これは少し深く考えれば重大なことで、なぜならそもそも「黄色人種」は「サルに近い」と思われているからだ。だから「黄色いサル、イエローモンキー」なんだ。これは深層的には冗談でもなんでもない。背が低いし、やや腰をかがめて猫背だし、姿勢がサルに近い。動きもチョロチョロちょこまかしている。サッカーの香川だ。日本人選手はすばしっこい(これは十分ステレオタイプだ)。悪くとれば、(本来のサッカー的なマリーシャスさは足りていないのに)日本の連中は集団で動くネズミみたいでもあり、こそこそ、ざざーッと(時には怒涛のように、今なら中国人観光客を想像すればよい)動かれると不気味だし、怖い。

 

さて、神戸製鋼の不祥事である。次から次だ。自分の会社が儲かるためならずるをする。これが日本企業の基本姿勢と言っていい。あがっている数社だけの話ではない。構造的問題だ。昔から法は抜け目があり、それを察知してうまいことやるのが賢い大人みたいのが東アジアの大人イメージだ。これは中国とも共通している。遵法精神が薄い。

 

心理学実験:アメリカ:十戒を想起して書かせたあとはずるが0になる。西欧だって十分普段ずるかったりするとこもあるし、犯罪も多いがいざというときの信頼の源はこれだ。

 

アジア人(ただ、韓国はクリスチャンが多い)はこれが共有できていない。別文化の人々(そういう点ではイスラームと同じ)。

 

いざというとき、どっかで人として信頼できる何かだ。

 

さぁ、信頼ですよ。社会心理学のキーワードで重大性が分かりますよね。これからの時代はますます信頼をベースにして国際社会は動いていきますよね。西欧的価値観が主導で「グローバル社会」は展開していくわけですから。信頼は基本価値です。これは社会的資本のもとにもなります。だから簡単に金では買えない重大な資産ですね。

 

その、その大事に大きな大きな資産を減損して、食いつぶしている深刻な重大性に日本企業は気づいているでしょうか? これは経済価値の話ですよ。 もう人としてとか、建前の話ではない。 信頼を減損すると商売するうえで大損こくんですよ。

 

このグローバル社会に備えることは、大学で英語を教えるような矮小な話ではなく、西欧的価値を理解して、企業人がそのルールを適切に理解して土俵にのって参加していくことでしょう。

 

西欧社会の信頼価値の重大性を見過ごしているとしか思えません。

 

せっかくかつてのソニー、ホンダ製品の「故障の少なさ」「性能のよさ」で、人はともかく「日本の商品は信頼できる」というステイタスをアメリカ社会で勝ち得たこの40年ほどの努力が水泡と帰そうとしている。ヤバいと思いませんか。

 

はい、社会心理学の謝罪研究を参照しましょうね。

 

有効な対処法、誤りを二度と繰り返さない対策構築・・・しているでしょうか。ここが日本企業の踏ん張りどころ、世界の評判において信頼を減損しない方法です。早急に取り組む必要があるのに、不祥事を繰り返す三菱自動車みたいにやばいです。結局会長にゴーン氏みたいな人を持ってこないことには「変わる感じ」が出せないわけですよね。

 

エコノミックアニマルには何回でも言いたい。「ちゃんとした商売しないとあなたが損なんですよ!」

 

そしてこういう仕方でしか耳を貸さない人がいたら、それが「アニマル」つまり人間として徳性、理性をもたない「人であって人でないもの」それが「イエローモンキー」です。

ただでさえ、地位を高めると、SCMに基づけば、性格が疑われやすくなるというリスクの法則があるわけですから、防ぐために気をつけないといけないわけです。 

 

なのに自ら自分のステレオタイプ性を高めて、海外社会から軽蔑を招くのは全く損な行いで、被害は海外で暮らす同朋全員に行き渡ります。

 

政治や国家の信条には「建前」「理想」がいります。アメリカ社会では当然のことです。だけど日本では理想を軽蔑します。今こそ、グローバルにもしも認めてほしいのなら?、政治家は「理想を語り」、国家の理想を語り、日本人、日本企業の振る舞いの理想を語り、「その建前と旗印があるからこそ」日本製品は信頼できるし、日本人、日本企業との取引は信頼できると思わせる。これが本当の国益であって、本来の自民党が担うべき役割ではないでしょうか。(日本を取り戻すではなくて遵法精神を持つ「新たな日本をつくりあげる」でしょう。昔ながらの職人気質をあらゆる場面で復活させるのは無理ってもんです)

 

ところが自民党政治家(だけではないが)は今も不祥事を繰り返し「政治家という者は信頼できない生き物」というステレオタイプを悪化させ、悪い見本に成り下がっています。日本の政治家たちが全くもって信用ならないのに、どうして日本製品や日本企業を信頼担保できるか、ここまでの僥倖を無にしないように、減損被害が拡大せず、間に合うように、真剣に各位(誰??、同級生か(笑)、いや神鋼はやめているし、おお東芝の取締役か?)がんばってほしいと思います。

 

政権の正統性

昨日のジョンのゼミは正当性の動機の話でした。ここらへんの文脈になると西欧的思考は意識的過ぎてそもそも術語のネーミング、概念の持ってきたからして違和感があるのだが、それは温めて考えておくことにして、正当性、正統性の話をしてみたい。

 

わたし自体、高校がいわゆる進学名門校みたいなところでそこからT大に入っているわけだから、同級生と言うのは日本のなかでわりあい「よいめにあっている」「優遇されている?」部類かと思う。医師や弁護士など資格稼業、それから議員みたいな政治家そのもの、それらを除いて考えてみても。 ただ、わたし高校は特段、金持ち的高校ではないので、資産家はそう多くないし、すでに特権を有している資産家連合体みたいな慶應的要素は皆無だ。東京にはそうした要素のある成蹊とか成城とかさすが首都で、資産の有効運用(人脈づくりも含めて)に資する共同体がいくらか形成されているのは興味深い。中小においても大企業ほどではない、裕福な事業家、地域の名士などそうした「中堅社長層」を受け入れていることの多い、高校・大学もだんだん分かってくる(特に塾業界で長く働いていると)。

 

そうした者たちが自分の利益になるように、あるいは自分の資産を守り、それを子どもたちなど血族に譲り渡していくにあたって「有利な」政治選択を行うのは「合理的選択」であり、そうした意味で長期にわたって日本で政権党をやっている自由民主党を支持するのも分かる(小自営は意外に公明ないし共産支持というのが増えて来るが)。

 

自民党はひとことで言えば、こうした既得権層、もっと簡単に言えば、「富める者がますます富む」ための政党であり、(事実どうなのかもう少し慎重に言うべきだろうが)日本の支配層が支配を維持し続けるために支配層自身に有利な互助団体である。たとえば経団連から支持を受け、昔はもっと大っぴらに大献金があり、そうした支配-支持関係のなかで金を回転させていた。

 

戦後から高度成長へとしばらくはこれは全く正当化できたかもしれない。大企業と言っても海外に出れば中小企業、それを国家が国家戦略として応援し(通商産業省はそのための省庁だったと言えるだろう)、産業を保護・育成し、世界にはばたかせる。まぁ一理ある。それによって国全体が富むということがあるからだ。まるで重商主義政策である(戦争もそうやって生じていった)。

 

しかし、1980年代以降、日本の大企業は、世界でも優れた企業であるし、十分儲かっている企業だ。企業と言う存在を建前的に考えれば、資本家は資本を投与して効率的に儲けようとするわけだが、AIとかロボットとかを考えない時代であれば、それには人手が必要だった。いくら儲けるアイデアがあっても周りで大勢の人が実際に動いてくれなければ全く儲からないし、話が始まらない。そこで労働市場ということになり、比較的よい給与を提示すれば人が集まり、喜んで働いてくれて、まぁ一種Win-Winとなるわけだ(実際は権力が全く異なる)。戦後の日本の労働組合はおおむねそういった路線でWin-Win感が持てるように賃上げ闘争を繰り返し、その代わり会社に忠誠を誓い、自己の労働を投入していたわけだ。会社も大きくなるし、給与も上がるし、やる気も出るしみたいな。

 

しかし、資本家の心性は、自分自身の儲けになるわけだから、それは創業家が滅んで株式会社の雇われ社長、会長に変わって行っても、個々人がまず自身の利益を考えがちなのはその通りである。すると、「合理的」には、なるべく同じ仕事をしてもらうなら「従業員は給与は安く働いて」もらうのが経済的に効率的だと(実は錯覚かもしれないのだが)考え、そうして非正規社員、アルバイトが増え、時給も買いたたかれて最低賃金近く、従業員は誰も働いても儲からず、徐々にやる気を減退し、会社自身は利益をあげてストックしていく(内部留保)。もちろん経営陣には高給与が支払われる(日本の場合、退職金などの支給で補う方法がとられたりするが、もちろんアメリカほどの高給与ではない。世界水準で見れば文句言われるほどもらってないよ~とみんな言うだろう)。

 

しかし、従業員がゼロになれば会社なんて成り立たない。それは労働市場という市場で怜悧に調達するということだろうが、人間は物品とは違うという考えを明確に打ち出せば(物品扱いしてほしいですか?)、企業にはそうした公的責任もあり、とりあえず「うちの会社に来てちゃんと働いてくれている」ことに感謝すれば適正に利益を配分するのが責務であろう(していない)。

 

ちゃんと見れば(というほどもない当たり前のことだが)、ここには明白に労使対立があり、経営陣は給与は安く抑えたい。利益は守りたい。そのためには法制的にも業界を守りたい。だからそれが可能と思える政治権力と取り結ぶ(もちつもたれつ)。つまり、企業の利益と自分の利益をあくまで守り、稼いで儲けていくことを、多くの人間の幸せよりも優先する方向性、選択が政権党との癒着ということになる。だからそうした者たちが自民党を支持するのは当たり前である。自民党は大企業、支配層、連合体であるわけだから、もちろん東電はつぶさないし、メディの電波利権は守り抜くし(メディアも支配層の一角である。大企業だから、当然インセンティブとして自己の権益保持という方向性を持つのは当然とも予測できる)あるいは農村や地方においてはその地方権力や地方企業、農協などと結びついて、その地方における政治・経済的に有利な地位を保持するシステムとなる。典型的には地方に道路を通したり、望むものを誘致したり、あるいは本当には望まないものだが、なんらかの利権につながる要素のあるものを誘致することを説得して個人的・仲間的利益は確実に確保したりなど。

 

当たり前のことしか書いていないので退屈で申し訳ないが、こういう仕組みは自分の身の回りで起こっていることから、本当に本当に当たり前のこととして身に染みていた。だから「庶民の利益を守らない」共産党的には「庶民いじめ(あまり好きな言い方ではない)」(いじめとは異なるもっと本質的でシステム的な大問題と思うのだが)というフレーズはいわば「当たり前」のことであって、むしろ人々がそれに耳を貸さないことが不思議で仕方がない。

 

だからすでに利得を得ている層がそのまま利得を得続けるために自民党に票を入れるのは当たり前なのだが、そうでない人まで自民党に票を入れないと長期政権にならないし、今回だって自民党圧勝と言われ、野党の票が割れるとかだけど、それもそもそも自民党に誰も入れなければ野党の票が割れたって野党が勝つのだから、「誰かが」自民党に投票しているせいで常に自民党は勝つのだ。

 

なぜ??

 

これは本当に昔から分からなかった。

 

すでに日本が富みだしてから、「すでに儲けている人がさらに儲けようと思って、自己利益獲得に奔走する、既得権益の保持に奔走する」のはそもそも生き方として見苦しい、汚い、卑しいとしか思えなかったので(中高の頃からそう思っていた)、自分はあまりそうした「卑怯な」仲間には入りたくないと思って生きてきた(大学人も既得権益の一角だと言われたら、それはある意味そうだと首肯せざるを得ないが、本来の役目はもっと第三者的、監視的なものである)。

 

だから「利益も得ていないのに」いやむしろそれで「被害を被っているのに」「賃金を安く買いたたかれているのに」大勢の人々が自民党を支持することが不思議で不思議で仕方ない。「あなたたちのための政党ではないし、政党も全くそう思っていませんよ」ということなのだが。

円安誘導だって輸出企業が儲かったり、株価が上がって株を大量に持っている富裕層はさらにますます富んだりするために行われただけであって、このところの政策も裕福な者限定で有利な政策しかしていない。当然である。自民党なんだから、それが本来の正しい方向性なのだ。庶民を富ませ、幸せにするために政党やっているわけではない。

 

前にこのブログで、内田樹とかの「破滅願望では?」とか、「本当に貧しいものはなんか考えているゆとりがそもそもない」とかいくつか頷ける理由もあるわけだが、どうもそれでは足りない。ごく普通に日常を送って、貧窮にあえいでいるわけでもない(が、もちろん金持ちでもない)庶民の一定数がこぞってなぜか自民党に票を入れる。自分の想像力の限界で、昔からこの謎が本当にわからない。

 

昨日議論して、理論的にはシステム正当化なんだ、それで安心なんだ、そうだよねと議論は終わるのだが、やはり何か徹底的に腑に落ちないのだ。なんか自分が遊離していておかしいのだろうか?

 

庶民にとって(こういういい方も見下しているようでおかしいように思うのだが)、「なんか安心っ!」ってそんな大事なことなのだろうか。たぶん大事なんだろうね。そして「そのまま自民党政権が続く」というのは「いつも通りの日常が続く」こととイコールであり、「何か安心」なのだろうね。これは日本人に「不安遺伝子」抱えている人が相対比較上ではちょっと多いからでしょうか。「結局なじみのある光景が日常的に一番安らいでよい」(たまに観光旅行で楽しむのはいいが帰ってきて「あ~やっぱり日本が一番落ち着くわ!」と言っていたい?)

 

これは決して「安心のただ乗り」ではなく、生活上高い対価をじわじわとず~っと払わせられての上であるわけだが、「取られている感」が少ないというのは政権運営が上手ということなのでしょうね。上手な人が減っている気はするが。安倍さんはそうした既得権益層が、あまりそれが目についてその利得構造が庶民から見える白日の下にさらさないように気を付けていたのを身もふたもなく、ある意味正直にがんがん、「自分たちが得したい」「私が得して何がいけないんですか! だってわたしは最高権力者なんですよ!」「わたしは自分自身が個人的にしたいことをすごくしたいんです!」ともろに叫ぶ方で、昔気質の自民党議員から見れば「そこは黙っとけ~」「それを言うなよ」という目も当てられない、行儀をわきまえない子どもみたいに見えるのではないでしょうか。やはり「破壊衝動」か?彼個人は。

 

昨日は決定権のない者、パワー(勢力、権力)ない操作をするとよけいにシステム正当化みたいなのの発表で、それ自体そうなのですけど、つまり政治的に有効性感覚を持てない者がよけい政権党支持するみたいな、でも支持しないとそんなに不快なものなんでしょうかね~、やっぱり不思議。

【行儀のよいのが】がたつくものは捨て置けなのだー【墓穴】

ドア

 

ここにおいてこれがやっかいなのはいろいろ経験して思う。

日本ではどこでもドアがあれば、ちゃんと開いてちゃんと閉じるものと無垢に信じているだろう。ここではそうではない!

 

たとえば大学のトイレ。ちゃんと閉まらないものがときどきある。実質ロックがかからないとか押さえていないとふ~っと開いてしまうとか。リーハイでもNYUでもそうだ。

 

で、リーハイのとき住んでいた3階の部屋。ドアはあまりちゃんと閉まらなかった。しかし、あまりいいかげんに開けておくと寝ている間にネコが入ってくるw。で、適当に閉じず開かずでまぁ「押し込んだ」状態という案配でしょうか。これが一番無難!

 

さて、ここWeehawkenのアパートでもそういうドアは多い。

ちょっと話は違うがこういう共同宿泊するようなところでは、出たときトイレのドアを閉めてはいけない。誰か入っているかどうか分からなくなるからだ。今回、ヨーロッパから来た行儀のよい夫妻は、締めちゃうのだ。じーっと様子をうかがっていてw、いなさそうならノックする。案の定反応がなく、開けてみたら誰も入っていない。面倒くさい。開けておいてくれよ。いるか、いないか考えてみているだけで面倒だ。これまでのゲストみんな開けていたよ。大体理屈が分かっているのだろう。大学でもばねで返るのでなければ半開けしておくものだ。まぁそれはよい。

 

ところが事件発生。

 

物置が閉まって開かないのだ。ここのドアはそもそもロックしないはずなのだが、よくある通り、もう建付けにガタが来ていてちゃんと閉まらない。無理に閉める必要はないのだ。単に物置なんだから。

 

それが・・な~んでそこにあったアイロンがキッチンに置いてあるのかなぁ??と朝思ったのだ。物置を開け閉めしていたのは分かっていた。

で、ふと見ると「閉まっている~」。 それが、・・・開かないのだ。なんでこれ! 鍵かかるもんなの?? どうもノブを回転させても差し込みが回転しないようだ。連動が壊れているのだ。回すとカサッと戻ってしまうみたい。表側、外側がスライドに切れている鍵なら、何か差し込めば簡単に開くし、本当にロックのあるもので日本のトイレとかならマイナスドライバーで回転させて開けられるようになっているものも多い。これは以前確認しておいたが、外に切れているタイプでなく、内に切れているので、外からものを突っ込んで開かないのだ。同じことで最初入居した時、同居のおじさんが自分の部屋を閉めちゃって入れなくなった話は以前書いた。

 

そう、簡単に外から突っ込んで開かないのだ。上から下からナイフ突っ込んで裏からプッシュしようとしたがダメだ。

 

トイレットペーパーの替えが入っているんですここ! あと、2,3日だなペーパーもつの。4,5人いると消費が早いからな。何だか無駄にやたら使うやつもいるし(床拭いたりしているのか・・)。

 

大家さんには言っておきました。明日クリーニングレイディがついでに見てくれるそうだ。なんとかなればいいが(ちゃんと大工道具があれば、もちろん釣りの蝶番の方からドア自体を外すことは可能だと思う。ペンキで塗りこまれちゃっているけど)

 

やれやれ、いろんなことが起こりますわ。まぁおもしろいけど。

 

今日は、ブラウンバッグさぼって原稿書き続け、ついに脱稿しました!!!おめでとう。 ちょっと直さないといけなさそうだけど・・

。ドアじゃないけど、ちゃんと締めていないような。お後がよろしいようでぇ。

リベラルとは何か、「さよく」とは何か

心理系の方でこうした関心がもし薄い方におかれては、永続敗戦論や日米関係についてあまり書籍を読まれるということがないかもしれません。捕捉します。

 

わたしが治外法権についての怒りを初めて感じたのは中学か高校かわかりませんが、沖縄で米兵が女子に乱暴を働いてそれを日本の法律で取り締まれない(捜査することさえできない)という理不尽な事態があることを知ったからです。

 

対米自立が政治的選択として正しいかどうかは開かれた議論においておくとして、政治戦略というものは本来「ありとあらゆる可能性について思考実験的に考えてみる」ということですね。こういうことはあり得ないと決めてかかったり、タブーだから踏み込まないというのは科学的な思考ではなく、何でも考えて、議論してみることです。

 

そうした基地の治外法権に疑問を感じるということから発していますから、10-40代比較的明確に左翼的志向性を持っていた私は、沖縄解放という左翼的な立ち位置からの対米自立がなぜできないのかの問題意識で考えていました。ナショナリズムは右翼のおはこですから、ナショナリズム的観点から捉えれば、「自国の領土を他国に占領されている」ことに怒りを感じるのは、右翼の方がよほど強く感じるべきことであって、確かに70-80年代までの右翼はそういうことも言っていましたが、右寄りの政党であるはずの自民党がそういうことをほとんど言わないのは、高校生心にも実に不思議なことでした。なぜかに興味ある方は前記事の本を読んでみてください。最近はこの本よりも少し進んでNHKが夏にもGHQ統治下の映像を流していたり、東京裁判の検証をしていたりしましたから、以前より議論する空気は醸成されているのでしょう。

 

乱暴にひとことで言えば、戦争責任として天皇を廃して、日本から天皇制を取り除くという対処をしないバーターに戦後多くの政治家が(自分自身の地位の温存ということを含めて)GHQに協力した(あるものはCIAのエージェントとなった)という歴史的事実がアメリカから開示された公文書からも明らかになったという近年の知識界での常識の実証的確認が進んだということです。敗戦国として未来永劫アメリカの下僕として従うという約束のもとに自らの地位保全がなされた者たちが大勢いたということです。それが現在の自民党を形成していますから、自民党はアメリカの言うことを絶対に聞かないといけないわけで、これは都市伝説でもデマでもない、歴史的経緯ということです。

 

もちろん、一応独立した国ですから、「昔約束したが、わたしはこれを破棄することにする」という政治家も現れていいわけですが、。。どうなるかは分かりますよね。

 

戦後ほぼ一貫して長期にわたり政権を担ってきた政権党がこういう経緯を持っているのですから、日米交渉を行って、治外法権を改善するとか積極的対策を打ち出さず、戦後70年以上たってもなかなかに沖縄の現状が改善されないのもうなずけます。近頃は忖度が流行っていますから、アメリカがもうグァムに引き上げて構わないと言った部分も「どうぞ居てください」という談合によって思いやり予算をつけてあえて「必要以上に居てもらっている」部分もあります(実際の戦闘になったときの戦略的意味さえないのに)。

こういう点から見て、論壇においては、日本は十分独立国の体を成していない、アメリカの属国である。ということは常識化しているものと見えます。

 

ここで「日本の誇りは・・・」とか言い出すと右翼みたいになるわけで、前回の記事も別に右翼的に日本の誇りは・・と言っているわけではないことを註記しておきます。しかし、国であるからには国旗への尊重の強制とかは脇に置いておいても、自分の生まれ、住んでいる国を素直に愛する、愛着を持つというのは健全にあっていい話で、社会心理学でもナショナリズムパトリオティズム愛国主義)を分けていますね。ナショナリズムの主体は国家、政府にあり(自国家が他国家に優越的に振る舞うことを志向し、そのためには個人が国家に尽くす)、愛国心は個人の心情です。

 

もともとアメリカの属国状態ですから、ある意味個人の心情としても傷つけられている人々かいるかと思いますが、近年の国境紛争で、自国領土が脅かされることで、さらに「日本人としてのプライド?」が傷つけられると感じる方々がいるのでしょう。こうした機会を経て、ネトウヨも成長し、右寄りの世論が日本のなかで成長、拡大していった経緯があります。(ところが右の人は不思議にアメリカ寄りで、アメリカと仲良くしたがる(これを宮台はアメリカのケツなめと敢えて挑発的下品な言を弄して指摘していますね))

 

さてこうしたナショナリズムは定義上、自国を他国に対して優越させようと欲望する傾向性ですから、局面によっては排外主義となり、本来は必然的結合ではないのですが、おうおうにして、自国内にいる他国人を排斥、差別しにかかる(典型的に在日朝鮮・韓国人に対する差別やヘイトクライム)。

 

戦後日本政界がある意味冷戦の代理人みたいなもので、アメリカから支援される自民系とロシアや中国から支援される社会党系の2大政党制で、その点どっちもどっちということから、現在は、社会民主党など左よりもものはすべて「中国の手先」という言説が幅を効かし、「さよく」の有効性は消滅しました。本来、へんに親中国ではないリベラルというものが政策的に存在していいはずですが、現在リベラルというと国境紛争に寛大あるいは腰が引けた日本の国益を考慮せず、(場合によっては中国に益する)うらぎり日本人であるということがなぜか社会的大衆的定説になったかのようです。

さよくやリベラルのレッテルを貼られると、日本の国益を損なうやからというのと同義のスティグマになってしうまうのですね。

 

不幸なことです。もっと健全なリベラルは構想できないのでしょうか。

 

先のナショナリズムから基づく排外主義に対置すれば、ダイバーシティへの理解、寛容、粘り強い慎重な討議、多くの配慮による意思決定、熟議による民主主義などを奉じて戦う勢力があっておかしくないはずですね。政策的対立軸としては明確です。

あるいはこれに「遠く国外では自衛隊は戦闘しない」とか「原発0を目指す」とか加えてもいいかもしれませんし、輸出企業は損してもいいから、輸入食料を安く購買したい消費者の立場から円高を容認するという立場もあっていいかもしれません。

 

しかし、対立軸は観念的に明確であっても「差別するぞ」という具体的行動に直結しやすい(ヘイトスピーチ行進など)排外主義に対して、「ダイバーシティを奉じる」というのは抽象的、観念的な旗印になりがちな点は指摘できます(レインボーパレードとかありますけど、まだどうもそういったものが大衆的に熱狂的に受け入れられるというマインドにはほど遠いような・・)。少数に配慮するのは多数のわがままを通したいというテーゼよりも論理的に少数になりがちですので、「大衆動員」の決め手に欠けるわけですね。

 

いずれにしても、現代日本人の頭のなかから「さよく」ということばを書き換えて、なんからのメッセージを出さざるを得ないときなのかなと思います。

 

今、希望の党に受け入れられない民進党左派の人たちが今週中に新党を旗揚げしたいという話が出ていますが、どういった「ネーミング」をするか見物です。

 

ジョンのゼミでの議論では、ポピュリストは右派だけに限らず、左のポピュリストの話もあるのですけれども、ヨーロッパでは今も元気に旧左派政党が衣替えしながらやっているわけですね。どうして、今の日本人はここまで左派ぎらいになってしまったのでしょうか。自分は今、立ち位置が中道左派くらいかなと思っていますが、もちろん政策的にはもう左右という古い分類(こういうのを古い分類というのも簡単に言いすぎで国際的には十分重要な次元であり続けていると思います)に基づかないさまざまな選択肢があり、イッシューにより態度を明確にしていかないといけないわけですけれども、2017年現在、ここまで資本主義、金融資本主義、グローバリズムの徹底の弊害と限界を見えてきた現代世界にあって、いわゆる資本主義でも社会主義でもない第3の政治・経済運営方法が真剣に模索されている世界にあって(先進国のなかで)日本だけがやたら右だらけ・・・(世論も?)というのはあまり賢い国の運営方向ではないように思えます。もっといろいろな可能性を自由にオープンに闊達に議論して、経済政策と予算の配分方法についてもっとまじめに議論をするべきときだと思いますよね。

 

「リベラル」とは本来そういった言論や思考、行動の「自由をさまたげない」こと、オープンで抑圧を嫌う寛大で開放的な態度をさしていたものではなかったでしょうか。人が圧殺されないひとりひとりの個が尊重されるそうした自由を愛することではなかったのでしょうか。

土人の自由

昨日ジョンのリサミはポピュリストの話題だったので、ついでに考えたことをメモ的に記しておきたいと思います。

 

土人」というのは正式に差別語とされているのかどうかわかりませんが、近頃では沖縄での基地反対闘争に関わって現地の?方たちを「土人」呼ばわりしたことが話題となりました。

 

しかし、ある意味ちゃんちゃらおかしいことに日本人全体が土人です。これはある意味西洋的文脈ですが。

 

土人とは植民地政策が繰り広げられていた帝国主義ヨーロッパがアフリカやアジアに進出した際、当然彼らが訪れる前からそこには人々が住んでいるわけで、アメリカ大陸のように大量虐殺したり、掃討に近いことをするという侵略以外に、土地や権力を乗っ取って、現地協力者を見出して間接統治したり(植民地政策でよくやる取り込み方)などさまざまなことが行われてきました。

 

土人は、当然に西欧文明とは違う価値観、地点に立ち、現地的歴史文脈のなかで日々の生活を送っている。これをコロニアリズム的観点、あるいはアジアにおいてはオリエンタリズム的な好奇心の目でとらえるしかなかった西洋社会から見て、日本では日本列島にのっかって生活している土人たちであったわけです。

まじめに言って、そのあと、近代化、産業革命、技術革新と続いていって、ある観点から整理すれば土人的価値観とは西洋近代的価値に従わない文化と定義できます。

 

であれば、21世紀の現代日本も土人の集まりです。なぜならそこに近代がないからです。これはもちろん私だけが言っていることではなく、広く社会科学を論じる人の間では常識かと思いますが、近代法的体系を中心に科学合理主義を奉じて社会の骨格を建てるという近代価値からすれば日本社会はその「フリ」をしているだけで、従っていないからです。法の運用においてしばしば逸脱に寛容ですし、一般社会はたいていの紛争を法で解決したがりません。情をもった3方一両損みないな裁定を理想の美談として、穏健に解決できるように話し合ったり、あるいはリンチ的に社会制裁したりすることでこの社会を運営しています。法にこだわることはむしろ日本では「おとなげない」こととされていますから、日本人の大人の理想としては、「法を越えた規範にしたがって生きる」ことは明らかでそういった点では社会の骨格を法に頼らず、日本社会にある慣習的規範によって運営することの方が好まれているわけです。

 

しかし、国際的な企業はそんなことは言っていられませんから、20世紀終わりごろから徐々に「コンプライアンス」などと言われるものが言い出され、これは日本語では「法律遵守」ですから近代国家ならば何をいまさらといった話です。談合やお友達優遇なども法よりも慣習的規範を重要視する社会ならば当たり前のことであり、実際ほんの10年くらい前なら問題にされることもなく、当たり前であったかもしれません。権力者は得をするものであり、行き過ぎはいやだけど、まぁそういったことがあるのは仕方ないよねってわけです(このあたりの前近代マインドは東アジア3国で共通のものだと言えます。価値的に 内集団尊重(忠誠規範) > 公正、正義ということです。なぜなら権力者は法に基づいて自分たちが選択するという本来の意味の国民主権ではなく、明治以来のなんらかの既得権益をもったリーダー層、エリート層が一般大衆とは別に存在して、そういう人たちが政治なるもの、江戸時代にも続く「おかみ」となり、おかみの言いなりに普段は暮らすが、巷では文句を言うという精神構造はなんら江戸時代から変わっていないからです。

 

明治維新は主に士族のなかから出てきた反乱、最終的に徳川の権益を奪取するといった権力闘争であり、市民革命ではありませんでした。身分は上から解体され、士族が廃され(貴族として残ったりしましたが)、国民皆兵的な下からの軍隊をつくることがなされた。そういった改革でしたので、「行政的権限がどこにあるか」という点では、議会政治の請願や民権運動が盛り上がるまで、社会というものに対する近代的理解は庶民の方で追いついていないというか、全く理解しきれていないものであり、政治は全く庶民の他で行われるものという2000年前からの価値観をずっと継続していた側面が大きく見られます。

 

これはこれで日本社会の特徴として開き直る手もあるわけですが、先進国のふりをして国際政治にかもうとすると無理が出るのは致し方ありません。

 

さて、そうした近代が達成されていない社会、とりわけ国民主権や民主主義が根付かない社会においてはポピュリズムというのは当たり前の現象であって、もっと言えば唯一の政治参加の仕方とも言えます。

近代合理主義が浸透していないわけですから、科学的合理的に選択をとろうという志向がそもそも存在しないので、選択は人気投票にならずに成立することはありません。これはイメージの闘いであり、戦後よくあったように、この方が豊かになりそうだとか威勢がいいとか、何となく信頼できそうとか、知り合いに勧められたからとか、町の偉い人だからというのも同じ範疇です。すべて「ヒュ―リスティック処理」による判断ですね。

 

合理的思考をしない最大の欠点は、まっとうな未来予測や、長いスパンで物事を考え、戦略をもって事を行うことができないことです。

 

まちがっても外れても戦略を持つことが当たり前である社会と、そうでないイメージ社会では異なります。イメージや雰囲気などの感情主導の社会は、常に感情と言うのはおうおうにしてその場の「反応」ですから短期的な「今」何を感じるかに基づいて動かされてしまいます。

ですから、日本ではこれまで多くの場合「増税」という短期の痛み(自己制御)は勝ち目がなく、長期的利益のために短期的報酬をがまんするという構図が適用されにくい社会状況にあったわけです。自己制御は多くの場合、長期的勘案に基づく理性の結果ですから。

 

アメリカ社会では、ながらくこうした理性に基づく自己制御、ポリコレ疲れみたいなことがトランプ現象の説明にも持ち出されることがありますが、日本には当てはまりません。ポリコレは全く達成されず、社会目標とすることを一度も国民的合意されていませんし、そんなこと日本歴史上一度も目指されていないのに、疲れるなんてあり得ませんから。

 

思った感情を言いたい放題で議論する(周りと同じ、同調しそうなら)という意見、態度は、社会的平等がさして進展していない証拠としていつの間にか男女平等という先進国の目標に遠く置いていかれている日本の現状が示す通りです。(このようにさまざまな差別の是正におくれをとることになります。基本的に差別の是正は理性のがんばりななので)

 

近代的理性に基づかず、直観的に言いたいことを感情的に述べてしまう。これが日本土人の特徴です。近代原理の外にあるわけです。土人社会ではリンチが当たり前ですから、気に入らない人や現象を寄ってたかって血祭りにするということも行われます。近代人はこういうことを意地でも口をつぐんで理性的に制御しようというところから市民の資格を考えるからです。だから初期には「それは女性には無理だから」と女性差別がなされていました。それは女性が「感情的な生き物だから」という偏見があったからです。政治的意思決定に関与する市民は理性的な存在であるということは西洋の社会運営ではもともとは当然の前提の命題だからそういった(残念な差別的)経過が生じることもあったわけですね。

 

自分の社会をどう運営しようが、現にその列島の上に乗っかっている人々が合意できているならば、それはよそからああのこうの言われる筋合いもないわけです。自分たちで「素晴らしい日本」と思っていられたらそれはステキで文句ないわけですから。土人でいて何が悪い。土人として振る舞う自由をわれらに、みたいな。ポストコロニアリズム的にはありですよね、一種。

 

ただ、長期的視野で戦略を立てられないという副作用は現代社会においてはジワジワ効いています。

 

次のことがこの長い文章で一番言いたかったことです。

 

アメリカからすごく第三者的に距離をとって、余計な詳細な知識をとっぱらって眺めていると、「日本という国は、一所懸命強い意図、意志をもって、同じ東アジアという地勢、位置においては、中国の後塵を拝そうと後退している、あるいはそう動いている」ように見えるということです。

 

(たった半年日本を離れているだけなのに、なんか偉そうにこんな風に論じてごめんなさい。英語もろくにできないにわかアメリカ在住者なのに。でもTVニュース見ていて自然にそう思えてくるのです)

 

とても不思議じゃないでしょうか。西欧的世界からしたら、本当にこれは疑問だらけの????なわけです。もちろん中国国家は近代性とはまた関係なしにいにしえから「戦略」が好きで、当然に昔から大国意識がありますから、世界のなかの中国という視点を常にもっていますし、そのための戦略を政治家なら当然考えます。

 

日本は新しい技術による発明を抑制し、IT革命を後退させ、ITと社会の関係の取り結びに消極的であり、新しいビジネスを打ち出さず、粉飾決算やずさんな安全管理の自動車やエアバッグなどズルいことばかりを懲りずに繰り返し、知識社会到来に備えず、研究・教育予算を投じず、未来社会を見据えて新しい世代、若い世代に益となる予算投入に消極的で、(悪い事ではないが)未来には存在しない高齢者にばかり目を向けた政策をとることによって、どんどん東南アジア社会から追い抜かれて行って、アジアでひとりだけ勝手に後退している。そして先進国のなかではひとりだけこの10年経済的な成長をせず、じっとして、沈んで行っている。

 

素直にいってそうしか見えません。なぜそんなことをするのか、理性的な分析をすれば疑問だらけで、その理由を教えてほしいという(実はそこまで興味はない・・なぜならアメリカ社会は負け行く者には冷淡だから。組んでも得にもならないし)くらいでしょう。

 

でも日本人の多くは(たぶん)そうした自分たちの土人性が好きで、そのままでいたいから、別に自己改革する必要も感じない。ただ、その結果、低成長になり、予算不足で閉塞的な感覚が社会にはびこります。

 

わたしが最近読んだなかで一番盲点で「ああ、そうかも」と気づかされたのは、「永続敗戦論」の白井聡内田樹の対談本「日本戦後史論」(徳間書店)のなかで、「破局願望」があるのではという指摘でした。閉塞が煮詰まるとちゃぶ台返しというか、もう全部ひっくり返してがらがらポンしたい(場合によってはもう一度戦争して負けるとか)とかそういった潜在欲望がふくらんでいるのではないかということです。

 

内田樹はとんでも本もあるし、いい加減なこと言いまくりで、とても理性的な論客とは言えませんが、わたしは時々彼の書く一言や分析に「あっ」と思うこともあります。武道家という点で信頼できる何かがそこに備わっているものがあるからかもしれません。

 

重要な指摘は安倍首相その人自身にこの潜在的破局願望が備わっているのではないかと言う指摘です。ならば、あえて危ない選択肢、むしろ自分の理想や目標達成から言えば「損で不利な選択」さえもやらかす理由が頷けます。 

 

システム正当化というジョンの切り口以外に、若者の間にはびこる安倍政権支持の心性の深い部分では、こうした「破局願望(の共有)」があるのではないか。だから周りが理性的な反論やその進む方向の「危険性」を口にしても響かない。むしろ「危険」のなかに入っていきたいと思っているからでしょう。「こんな日本社会は一回壊さないと、チマチマした「改革」程度では動かなくてダメだ」という暗い気持ち。それは本当だとしたら恐ろしいことですね。どうでしょうか。

 

もしかしたら、みんな「バルス!」が夢、願いなんですかね。

「こんな間違った日本はぶっ壊す!」なんてね。

 

食パンがうまい

特に食パンを積極的に食べる方ではない。昔一時かなり健康に配慮していたときは(日本で)、朝食に何もつけない食パン一枚ということで暮らしていたときがあったが、それはカロリーを抑えめにするためで、うまいとかまずいの問題ではなかった。

 

さて、8月に日本に帰国した際にかかりつけで診てもらってさして健康の問題はなかった。塩分ヤバいかなと思ったが、相変わらずうっすら逸脱値ではあるが、特に増えていなかった。よかった。

 

しかし、自分で料理をしなかった前期では、買い込んだ缶詰が多く、缶詰ソーセージやスパムは塩分が多いし(30%Offとかのを買っていたがそれでも食べている実感として塩辛い)、ポテチはもちろんトルティアチップやタコスも塩分があり、パスタだってそんなこと言えば塩を練りこんである。ホント塩分がないのってごはん、コメだ。しかし、なんたることか、中華屋のテイクオフで白米がついてくることがあるのだが、あまりに味気なくて(おいしくない)、しょうゆをかけちゃったりするから(ついてくる)、意味がない。

 

前にも書いたが、3月に来た時からごはんを炊く簡易容器はもっている。しかし、8月末とかのホテルでは800-1000wくらいのすごい出力のレンジで、この容器の説明書きにある500wで7分というのをどうすればいいのか判断つかず、結局使わなかったのだ。

 

今回、アパートに越して、このレンジもlow, medium, highとあるだけで一体何ワットか分からない。いろいろ温めていて、経験的にmediumはそう強くないなと感じたので、このあたりで400-500wだろうと踏んで、アナログダイアルなので、ちょっとだけmediumの表示よりも強く回したあたりで7分かけてみたら見事にちゃんと無事ごはんが炊けた。塩分を控えたいときはこれでOKだ。といっても、この容器、(普段でもそりゃそうだが)炊く前に30分米を水につけておいて、7分炊いて、で15分蒸らすので食べるまでかなり時間がかかる。事前につけておけばいいが、気の短く、さらに思いつきで日々生きている自分としてはいつ米が食べたくなるかわからないし、まどろっこしい。

 

さて、部屋にいるとなんかひもじくなりおやつが欲しくなったりするが、ここでまた塩分だ。好きなナッツ類も塩分多し。そこでふと、以前韓国の2人組が残しておいていった食パン、これだ。食パンだと味気ないし、日本では近所のうまい店(パン屋)のを選んで買って食べているからまぁおいしいのだが、こちらのスーパーで買ってもどうだかわからない。なんか味気ない気がするので、ハンバーガー用のセサミパンやホットドッグ用のばかりを買っている。食パンは旅行(学会)とかの際に買っちゃうこともあるが、今回一度もまだ買っていない。

 

てことで、期待せず、トースターがあるので焼いてみたら・・・これが意外とうまい!!! 適度な炭水化物の甘さでおやつとしてのひもじさは解消できるし(塩分は少しあるのだが)、感覚として塩辛くないのでグッド。意外にこれ、間食として使えるなぁと思って、油分も多い、ポテチ系なんか食べているよりよほどいいだろうと思った次第。いままでトースターなかったから焼くことを考えずにパン類は全部そのまま食べていたが、あらためて久々に焼いて食べてみるとカリっと少し香ばしくいいではないか。(日本の家でも気が短いので面倒くさくて焼かずに食べることが多い) こちらのトースター出力が高いのかホントにすぐ焼けてしまうのだ。それもいい。ホテルで朝食つきのときにマフィンは焼いたりしていたがこれは盲点だった、見くびっていた。

 

ということで今度スーパーに買い物にいったときは、食パンも買って来ようと思ったのであった。ごはんはやや面倒くさいので「食べた~い」となったとっておきのときに炊くことにしよう。家人が来た時にカレーや牛丼のレトルトをくれたので、徐々に消費していくつもりである。

 

一緒にいただくコーヒーがもっとうまければ言うことないがCVSで買ったフレンチローストがいまひとつだったので、今度はどこかでもっとうまいのを買いたいものだ。

態度の悪い日本人客

こちらの偏見と超わがままが基盤ってことをまず言っておく。

自分がこれまで都合よくこのアパートを使ってこれた僥倖があっただけだろう。共用スペースは共用だからいろんな人がいろいろに使ってもちろんよいものだ。

 

ところが幸い、ありがたいことに9月1日入居以来、わたし以外は3-5日くらいで次々旅行者として入れ替わるわけだが、朝食を食べるとか以外に、キッチン、リビングなどあまり使わない。そりゃぁ自分でも旅行できたと思えば、寸暇を惜しんで朝から観光にでかけ、ミュージカルでも見て晩飯食べて遅く帰ってくるだろう。居所での存在感が薄くなるのはもっともである。

 

韓国人2人組はバカンスを満喫ということか、わりにだらだらと日中いたが、部屋にこもるタイプだったのであまりリビングスペースにはいなかった。

 

一昨日人が入れ替わったようで(いないと思ったのは勘違いで昨日も遅くに帰ってきた。片方の部屋はチェックアウトして掃除が入っていた)、ちらっと見ると派手な洋服の髪が薄い茶色なので全く何人かわからずいた。ところが昨日彼女ら(二人)が夜中12時くらいに帰ってきたら(ちょうどこちらトイレで起きた)、「超さいあく~」とか大きな声でリビングでいきなりしゃべり合っていたので日本人と知れた。トイレに行くとき、ハロー、こんにちわと言ったが「・・・」みたいな感じでこちらを見るだけでレスポンスがない。大体西洋系の泊り客だと、「ハロー」「ハロー(元気よく)、アイム××、ナイストウミーチュー」みたいな感じで社交的で愛想がいいのだが(Airbnbでこういうのが普通かどうかデータがないから分からないが、わりにそういうもののような気はする。だって、ゲスト同士迷惑かけないように仲良くしましょうみたいに書いてあるし、ゲストもホストからあとで評価されるから)。で、夜中一時くらいに順にシャワーを浴びたようで、時間帯としてはほんとはちょっとね~、と思われる時間帯だが、ホテルよりは自由に振る舞う傾向があるような気がするAirbnbでは。

 

西洋的価値観(アラブでもか)で考えると、多様な人がいるのはまぁ当たり前なのだが、それは危険でもある。だからきちんと挨拶して何者かを瞬時に判別(信用できそうか)して、名乗り、顔見知りになっていた方が(盗みに遭うなど)悪い事が生じる可能性を減少させることができるからだ。これが西洋社会でのあいさつの基本思想だと思う。つまりおおげさに言えば、危険を避け、自分自身を守るために積極的にあいさつするのだ。ご承知のようにアメリカ社会のなかでこうしたあいさつを最もしない民族が最もシャイということで知れた日本人である。

 

あいさつは自分の身を守ることにもなるだろうになぁ。同居者が全くあいさつ、軽い会話もなしの者であって心配でないのか?

とも思うが、あまり頓着しないようで、本日もリビングで顔パック(あまり人に大大的に見せれたものではないから部屋でやったら・・・と思うのだが、おじさんの発想だろうか)している。

 

なんだかことばの通じる同じ民族どうしなのに、一番距離のあるような気がして、これまでで最も気詰まりで、リビングに居るとかなり出にくい。それでも朝がんばって冷蔵庫からチーズをとってきてトーストを焼き、「このパン韓国の人が前に置いていったやつだから食べちゃっていいですからね」と言っておく。「はぁ・・(小さい声)・・」みたいな感じ。あまり関わってほしくないのだろう。現地で日本人にも会いたくなかったかも(よく日本人どうしはさりげなく、すーーっと避ける。中国人どうしとは対照的な距離の取り方)だが、こちらがイヤなのでもう一押し「観光ですか?」「うなづく」「マンハッタン行くの」「はい・・」「じゃぁどうぞ楽しんでね」みたいな感じで無理やりやりとりして、トーストにチーズのっけて私は部屋に去った。

 

もう昼近くだが、彼女らはぐだぐだしているうちに、現地人らしき男性がどうやら迎えに来たみたいで、それでようやく出て行った。はぁなんか気づかれしたぁ。なんか日本人って「さっぱりしてない」なぁ、ある意味社交スキルがないというか、社交を演じる気がないのだろうか。アパートでは気を抜いてくつろぎたいかもね、確かに。まぁこんなおじさんと会話をするモチベーションもそもそもわかないだろうけど。きっと若いイケメンならガラッと態度違うのだろう。

 

ということで彼女らが立ち去ってから、ごはん炊いてカレーを食べたのさ。